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2008年7月27日(日) 尾道をゆく 浅野候寄進の祇園鳥居 尾道学研究会 林 良司 |
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明治初年の神仏分離によって、常称寺にあった 祇園さんが久保新開の厳島神社(明神さん)へ遷 (移)って以後、常称寺境内西脇、現在の観音堂 辺りに位置した祇園社の建造物は、今に見る事が 出来ない。よって往時の風景は、江戸後期の境内 絵図(後代の写し)と、浄土寺に遺る安永の絵屏 風(尾道町絵図)によって偲び見るしかない。 宝暦6年(1756)の『常称寺井尼寺之絵図』 (写)を見ると、大きな鳥居をくぐって、東向き に拝殿、本殿(神殿)、そして北側(現在の庫裏 前辺り)南向きに三体神輿が納まる神輿殿(蔵) が見える。寺院内の鎮守社といっても規模的には 大きく、絵図を見る限りでは宝土寺鎮守であった 一宮社の規模に近い様に思われる。 「常称寺にあった鳥居が久保の八幡さんに今も あります。それが祇園さんの鳥居でしょう・・・」 祇園さんの常称寺里帰りでサポートして頂いた 時宗正念寺(西久保町)の荻野義正住職から、事 前調査で思いもよらぬご教示を受けた。 久保亀山八幡神社(永井伸彦宮司)の二の鳥居、 即ち線路北側にある石鳥居が何と祇園さんの鳥居 であったのだ。柱部分に刻まれた文字には「正徳 六丙中 天林鐘初七日 當山廿三世拝記」と、神 社には場違いな当山23世(住職)の文言。片面の 柱には「芸備國主四品侍従源朝臣吉長」と広島藩 主浅野吉長(5代目)による建立である事を刻む。 正徳6年(1716)の建立年の後に続く「天林鐘」 (てんりんしょう)とは漢詩で、天は頃、林鐘は 6月の別名であると荻野住職より教えて頂いた。 「天林鐘初七日」は即ち6月初めの7日、この日 は当時の祇園祭の初日にあたる(旧暦6月7〜14 日が祭礼期間)。 半田堅二さん解読中の常称寺文書にも、浅野候 寄進の石鳥居を清掃したいとの願い書きが見え、 浅野候から祇園社への鳥居寄進については史料的 な裏付けも取れている。 亀山八幡に祇園社の鳥居が遺されている経緯に ついては不明だが、神仏分離の際に流れたと見る のが妥当であろう(分離以降、祇園社は亀山八幡 が兼務する)。尚、久保新開に建つ鳥居は厳島明 神の鳥居で、祇園さんが遷って来る以前からのも のである。 三体神輿が納められている現在の社殿(厳島・ 八坂神社拝殿)を見上げると、その屋根に常称寺 大門に同じく祇園の巴紋(一・二・三巴)を刻む。 この建物が分離以後の新造か、はたまた常称寺時 代の建物を移築したものか?、こちらも一度調べ て見る価値がありそうですよと、今回の尾道学例 会で「祇園信仰と陰陽道」についてスポット解説 して頂いた、荻野住職のお孫さん・木下琢啓さん (大学院で陰陽道を研究)から、夏休みの宿題を また一つ頂戴した。 |