2008年7月26日(土)
尾道町祭礼歳時記
 すみよっさんの花火
  尾道学研究会 林 良司
 7月最後の土曜26日夜、今年も尾道水道にドン
と大輪の花咲く住吉花火が執り行われる。もっぱ
ら夏の一大観光イベントで取り扱われがちだが、
尾道港の守護神である住吉神社の例祭、即ち厳粛
なる神事・神祭りであってイベントという括り
(捉え方)は当然ふさわしくない。尾道伝統の歳
時記・年中行事(寺社の祭礼が中心)と、あくま
でも観光(集客)目的に始まったイベントを一緒
くちゃにしてはならない。本紙コラムでも一度き
ちんと区分けして整理した方が良いと提起されて
いたが、当然として尾道学データベース上に必要
な部分だろう。またその作業は、祇園さんと常称
寺の再会を先例・好例として、新たな地域資源・
観光資源の掘り起こしにも繋がるはずである。
 同コラムで住吉花火は何時から始まったもの
か?と指摘が出ていたが、花火の打ち上げは幕末
頃から始まった様で、住吉神社を崇敬する浜問屋
衆が、江戸の両国花火に刺激されて、尾道も負け
てなるものかとやり始めたらしい。後に「東の両
国、西の尾道」と称されたというから、なかなか
の格を持った花火である。また、ライバルと同列
にまで押し上げた浜問屋衆の祭に対する力の入れ
様も凄い。
 花火が祭の主体と思われがちだが、これはあく
までも余興に過ぎない。御神体を載せた御座船と
御供船が鶴湾を周遊する海上渡御(とぎょ)式が
要であり、それに華を添えるものとして花火が打
ち上げられるのである。住吉花火祭(現在は住吉
まつり花火大会の名称)が出来上がる幕末以前は
単に住吉祭であり、元来の祭日は旧暦の6月28日
夜であった(江戸後期の地誌『尾道志稿』亀山士
綱編著参照)。
 因みにすみよっさんも源を辿れば寺に行き着き、
神仏習合で浄土寺の内に祀られていた。そこから
港築調を果たした平山奉行が住吉浜へ遷(移)し
今に至る。
 創始と共に指摘されていた″三大祭り″の解釈
はなかなかむつかしい。古い文献史料(江戸から
大正期の範囲で確認)においてはそういう括りは
見られない。″尾道七社″と称して、尾道町内の
社祠から七つをピックアップしたものは江戸期に
おいて見られるが(向島七社もある)、祭礼に関
してはない。恐らくは戦後以降の産物で、観光的
な見方で他所に倣って言い出したかなり新しいも
のと思われる。



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