2008年4月20日(日) 尾道をゆく(46) 菅公腰掛岩その伝説と史実 尾道学研究会 博士(文学)八幡浩二 |
||
長江口に所在する御袖天満宮の縁起は、尾道の 民話伝承「菅公腰掛岩」として広く知られている。 とりあえず、その内容を『尾道の民話・伝説』 (尾道民話伝説研究会、2000年刊)を参考に長文 であるが、紹介してみよう。 菅原道真が大宰府へ赴く途中、長江の入り江に 船を着け、浜の岩に腰を掛けられていたところ、 近くに住む金屋という農民が通りかかった。道真 を見て、都人らしいがひどくお疲れの様子なので 気の毒に思い自分の家へお連れした。そして粗末 ながら温かい麦飯と甘酒を差し上げた。そのもて なしに道真は大いに感謝し、その御礼にと自分の 衣の片袖を千切り、その袖に自分の肖像を描いて 金屋へ渡しました。以来、金屋家では御袖を家宝 として代々伝え後に、社を建ててお祀りいたしま した。そして、その社は御袖が御神体なので、 「御袖天満宮」と呼ばれるようになったという。 ところで、いまさら強調するまでもないが、史 実は史実であり、また伝承は伝承であり、決して それらを混同してはならない。しかし、私はそう した伝承や口碑が生じたプロセスや背景について 考察を行うことは重要なことであると思う。そこ で今回は、菅公腰掛岩をめぐる伝承と史実につい て、歴史民俗学的見地から、以下に私見を述べて みたいと思う。 まず、実際に菅原道真が尾道地域に立寄ったか どうかという問題であるが、(タイムマシーンで もない限り)その真偽を結論付けるのは不可能で ある。けれども、同様の伝承が瀬戸内海沿岸地域 に数多く認められるという事実は注視してよかろ う。なお、対岸の向島にある冠天神も、そうした 事例の一つである。仮にもし、それら伝承地がす べて真であるならば、複雑で非効率的な海路が復 元され、大宰府に到着までに余計な日数を掛ける ことになってしまう。 また、肝心の菅原道真が腰を掛けたとする岩は、 それぞれが1メートル弱の二つの花崗岩からなる もので、その岩が位置する地点は、標高約15メー トル地点を測ることからも、伝承でみるように、 長江の入り江に船を着けることは現実にはありえ ない(今後、地球温暖化が進めば分からないが・ ・・)。もし仮に、当時そこまでが海面であった ならぱ、旧市街の斜面地以外は当然に無人の地で あり、それはこれまでの尾道遺跡の考古学的成果 と大いに矛盾することとなるのである。まずはそ うした事実をご理解頂けるだろうか。さらに、平 安期に金屋という名の農民というのも可笑しな話 である。 では、一体何故この地にこのような伝承が創作 されたのであろうか?それを解く鍵が腰掛岩横に 建つ、約123・5cm、幅約42cmの史蹟碑である。 その碑面には「玉浦栗田氏之地屋石二相伝 菅公 西遷過此地面一時憩也主人看護夜■鳥乞余祀其事 ■年懐其人面及 其石亦待人甘棠之意欲 天保五 年甲午秋八月 平野真識」(■判読困難)と刻ま れている。碑文から、平野真が由緒を記し、18 34年(天保5)に建立されたことが知られる。 平野真の人物像は明らかでないが、文人・知識人 層であったと推察される。 結論を先に述べると、菅公腰掛岩の伝承は金屋 (栗田氏)が家格・由緒を高めるために作り出し た可能性が極めて高い。また、その背景に文人・ 知識人の関与があったものと考えられる。想像を 逞しくすれば、元来は金屋の屋敷内で祀られてい た天神社が、現在の御袖天満宮に発展したと捉え られるのである。 金屋(栗田氏)は、近世期における尾道の豪商 の一つで、幅広く商いを行うが、主に酒造業を営 んでいた。伝承の中に、甘酒を献ずるモチーフも そうした家業を反映しているのかもしれない。そ して、金屋が特に「天神金屋」と呼ぱれた背景に は、現在の御袖天満宮の造営主体であったことや、 御袖天満宮の下に拠点があったこと等が挙げられ よう。 何れにしても、菅公腰掛岩の伝承は尾道の豪商 と、彼等と交遊した文人によって、近世後期に創 作されたものと位置付けることができそうである。 言い換えると、それはまさに尾道の歴史的環境 (近世町人文化)の賜物なのである。 |