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2008年1月27日(日) 尾道学発掘レポート 刀鍛冶其阿弥の末裔 尾道学研究会 林 良司 |
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其阿弥(ゴアミ)という独特な姓がある。長江 艮宮境内、鍛冶屋の守護神として祀られる金山彦 神社(池を前にした小祠)を囲む玉垣の内に見え るその名は、石工と並び、その腕を称讃された尾 道鍛冶の内でも、一際光る名前である。 その末裔の方が廿日市市にお住まいで、尾道の 人に是非語り伝えておきたいと言っておられる.. 思いもよらぬ話が、昨年の見学ツアーでお世話に なった県立文書館の西村晃先生から、尾道学古文 書講師の半田堅二さんのもとへもたらされ、初雪 に見舞われた先日、半田さんと廿日市の其阿弥さ んのご自宅を訪ねた。 80歳になられる当主の其阿弥覚(さとる)さん は実に紳士的な方であった。我々の訪問を賓客の 如く丁重にお迎え下さり、恐縮至極の我々を前に、 ゆっくりと其阿弥家について語り起こされた。 先ず其阿弥なる独特な姓の由来は、時宗の二代 遊行他阿真教(ゆぎょう・たあ・しんきょう)上 人が尾道へ足を留められた折、初代正家(まさい え)がお札切りの小刀を上人に献上され、その褒 として上人より授けられたのが其阿弥という時宗 の法号(阿弥号)で、後にこれが姓となった。其 阿弥昌行に代表される名刀工を輩出するなど、名 門的な刀鍛冶であったが、江戸幕府によって出さ れた廃刀令以降、刀から主に錨(いかり)や船釘 といった船鍛冶、その他包丁や鎌といった生活用 具を扱う様になっていった。 屋敷地は無論として鍛冶屋町の一角、ちょうど 長江口に面した位置で、鍛冶屋町最後の一軒であ った大豊鉄工所(既に廃業)がその跡地であった。 この屋敷の所在に始まり、お話の中で今まで知り 得なかったものが多々あり、そんな中でこんな面 白いエピソードが聞かれた。 覚さんから3代前の其阿弥甚蔵(写真=肖像画) は、第12代横綱陣幕久五郎と懇意の仲で、ある日 尾道の料亭で酒の飲み比べをした事があった。お 互い負けず劣らずの酒豪で結局勝敗はつかなかっ た。そして店を出る時の事、陣幕は酔いが回って いたと見え靴を間違えてしまう。そこですかさず 「お前の負けじゃあ」と甚蔵が勝ち鬨を上げたと いう。 また、東隣になる豪商橋本家(現在の長江ロバ ス駐車場一帯。後に久保の別荘へ移る)へ盗賊が 忍び込んだ際、甚蔵はこれをとっ捕まえて懲らし めたという。何れのエピソードも、その豪傑ぶり が窺える逸話である。 初耳としては鉄砲や大砲も製造していたという 話もあり、鉄砲は広島藩を始め6つの藩からその 御用鍛冶を拝命し、大砲は紀州徳川家に買い上げ られた事もあったそうだ。しかしそれらは大きい 需要にはならず、一番の主力は船鍛冶で、こちら は多量に生産されて、儲けも相当なものであった という事である。 其阿弥家のその後だが、覚さんの父・直次郎さ んの代に店終いし、尾道を離れて広島市へ移られ たのだそうだ。 誇り高き其阿弥の血脈を受け継ぐ覚さんは、鍛 冶屋町跡、名刀工長行顕彰碑(長江艮宮境内)、 其阿弥発祥地ともいうべき常称寺、昨年暮れに覚 さんが建立された刀鍛冶の石碑(宝土寺墓地)な ど、その名を知られた尾道鍛冶の歴史を偲ぶ散策 コース(刀鍛冶ロード)を設定して頂けれぱと願 っておられた(手作りによる尾道学的な○○ロー ド設定及びマップ作りは既に会の中で提起されて いる)。 |