2008年1月11日(金)
加島探検記
江戸期の尾道豪商「松本家」の源泉たどる
 2代目、重長の墓を発掘
  「蹴鞠場」や「曲水の宴」の跡も
墓石の刻印
 尾道学研究会が向東町沖の加島の歴史的調査をお
こなっているが加島の歴史に興味を持ち独自に探検
している元向島町文化財保護委員、藤田久登さん
(78)ら4人が昨年12月、加島に渡りフィールドワ
ーク、その結果を寄稿してもらった。江戸期の豪商、
松本家の2代目、重長の墓を発掘するなど実りある
成果を上げた。
 加島に渡ったのは藤田さんのほか昭和48年まで加
島に住んでいた井上勝吉さん(70)、城本才さん
(84)の2人に松田忠雄さん(71)の4人。
 「加島探検記」を藤田さんに寄稿していただき、
内容は次の通り。
 念願だった加島に踏み込んでみると、かって人が
住んでいた本浦一帯は30年余、無人だったため竹が
生い茂り、なかなか前に進めなかった。
 江戸時代、尾道の豪商泉屋、松本家は初代、重政
から10代重致まで加島に住んでいた。加島新開が出
来た寛文の頃(1616年〜)から住人も増え、8世帯
が暮らしていた。
 加島松本家が最も繁盛じていた頃に築かれた麗々
園では中国伝来の古典遊戯の「蹴鞠」や上流から流
される杯が自分の前を通り過ぎぬうちに詩歌を詠じ
て杯を取り酒を飲む古代朝廷でおこなわれていた
「曲水の宴」の設備が在った痕跡が窺われた。
 6間四方の平地で蹴鞠場の跡らしい所を進むと高
さ1mから2・5m、延長30mにわたる石垣があり、
そこが松本家の邸宅であったと思われる。邸宅の脇
には井戸があり、花崗岩の井戸枠を取ってみるとゴ
ミの間に清水が光っていた。加島で生まれ育った城
本さんは「この井戸水は良質で尾崎の漁師がよく貰
いにきていた」と話していた。
 城本さんに案内され、松本家の主屋に行くと6畳、
8畳、6畳の部屋が2列に並び、畳や床板が落ちそ
うなのを用心しながら歩いて行くと押し入れや床の
間の跡もあり、家の前には風呂の跡もあった。西側
に回ると隆盛時の名残りとも言える賀島碑があり、
その側に城本さん手作りの稲荷社も鎮座していた。
 城本さんは「主屋の桁は屋久杉で茅葺き屋根の維
持が大変なので、松本家が絶えたあと、わしらがト
タン覆いをした」と語っていた。
 屋敷を出て西に向かうと緩い傾斜地に山からの水
路があり、この水路で「曲水の宴」を催したであろ
うと推測した。
 竹林が覆い茂った山道を上がって行くと「緑玉墓」
と出会った。この墓は7代目当主、緑玉のもので、
その隣に土でかなり埋まった墓石らしいものがあり、
辛抱強く掘り起こし解読したところ2代目、重長の
ものと判った。
 墓石に「正徳六丙申月廿一日 安岳宗泰 松本重
長 六十七歳卒」=写真=と書かれ、松本家と一番
緑の深かった城本さんは「泉屋の先祖の墓が分かっ
た」と歓声を上げた。
 島の東北端には俗称『城が鼻』という知名もある
ことが分かった。まだまだ謎の多い加島だが、今回
の探検により一歩、前進でき大変喜んでいる。



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