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2006年8月10日(木) 『白滝山荘』来春20年 75年前、著名アメリカ人設計家が設計 家族の思いで生き返る 国登録有形文化財のペンション |
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尾道市因島重井町、白滝山(標高227m)の 中腹に、昭和初期の洋館を活用したペンション 『白滝山荘』がある。著名なアメリカ人建築家、 ウィリアム・ヴォーリズによる設計で1931年 の建築。もとはキリスト教宣教師の居宅、その後 日立造船の集会所や宿泊施設などに使われ、19 87年にペンションに生まれ変わった。内外観と もに建築当時のようすを今に伝える貴重な近代化 遺産として、1999年に国の登録有形文化財に 登録された。「古いものを直しながら大切に使う」 というオーナー家族の優しさが、今年75歳の洋館 には息づいている。 [幾野伝] 白滝山荘は重井町の西向き斜面の集落の最上に 位置、瀬戸内海や生口島がよく見える。1931 (昭和6)年、アメリカ人建築家で伝道師、ウィ リアム・メリル・ヴォーリズ(1880〜196 4年)の建築設計事務所の設計で、アメリカ人宣 教師、ファーナム氏の居宅として建築された。 その後、第二次大戦で不遇な時代を経験、戦後 は日立造船の所有となり、イギリス人の保険外交 員が借りたり、集会所として利用された。195 7年7月には、高松宮妃殿下が新造船の進水式に 出席、宿所になったという歴史がある一方、近年 では因島大橋の建設作業員や、造船会社の外国人 研修員の寄宿舎として乱雑に扱われた時期もあり、 建物にとって波乱に満ちた半世紀だったといえる。 近所の人にも古い洋館として認知はされていた ものの、どこかで忘れられた存在になっていたの も事実。そんな建物に着目したのが、因島出身で 当時大阪で板前をしていた矢田部健二さん(48)と 父親で因島市の総務部長を務めていた矢田部文武 さん(75)・母親のマツ子さん(73)だった。 健二さんは30歳を前に人生の岐路に立ち、55歳 の文武さんも第2の人生を考えていたそんな時、 マツ子さんがふと、洋館のことを言い始めた。マ ツ子さんにとって洋館は、女学生時代に宣教師に 招かれて訪れた思い出があったという。 「まずは見に来ましたが、空き家で中も外もポ ロポロの状態でした。雨漏りがひどく、さらにそ の時その時に、何も考えずに使い勝手がいいよう に改築、改装されていました。でも独特な雰囲気 は残っていました」と健二さん。「自分も建物も 生かしてやろう!」と日立から借りてペンション を始めることを決定、自分達も改装を手伝いなが ら準備し、文武さんの早期退職の日、1987年 3月31日に初めてのお客を迎えた。 その後造船不況などで施設を買い上げることに なり、妻の伸美さん(44)も家族に加わった。主 に料理を健二さん、清掃や部屋作りを文武さんと 伸美さんで手分けするが、長女怜奈さん(13)と 長男宗幸君(11)の家族全員で仲良く協力してい る雰囲気が伝わってくる。庭にはマツ子さんが育 てる四季の花が咲き誇る。 「物が捨てられない性格で」と苦笑いの健二さ ん。「あの時、あと3年遅かったらこの家は壊さ れていたかも知れない」と話し、今では出来る限 り自分で建物の手入れをするようにしており、窓 枠の塗装や漆喰の壁面の塗り替えなど、徐々に大 工の腕前も上げたと語る。 3階建ての木造(一部鉄筋)瓦葺き。外観は窓 枠や骨格を赤色で強調したヴォーリズの特徴とも いえるハーフティンバー・スタイルで、壁は内外 とも白の漆喰塗り。斜面に建つため2階がメイン フロアで食堂や居間、3階に寝室が4部屋ある。 ドアノブや上げ下げ窓、トイレ洗面所の収納や蛇 口など当初の設備が多く残っている。 ヴォーリズは同志社大学のアーモスト館、関西 学院大学、広島女学院大学校舎などを手掛け、大 正から昭和初期の洋館ブームをつくった人物。 白滝山荘には、静かな雰囲気と魚料理を楽しみ にしたリピーター客も多い。しまなみ海道の開通 時には初代の住民だった宣教師ファーナム氏の孫 が立ち寄ったという。地元の小学生が地域を調べ る授業で訪れることもある。家族の思いで生き返 った洋館は、ペンションになって来春で丸20年を 迎える。 問い合わせtel 0845−25−0068へ。 |