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2006年7月1日(土) 縄文期から人が定住 「古きをたずねて」・・5.向島民族資料室 塩田開発 栄華を極めた海物園 大正期、清浦総理が八幡宮を参詣 |
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かって長寿日本1の向島町立花、自然活用村に ある「向島民俗資料室」には江戸時代から昭和30 年代まで続き、島を支えてきた製塩業を中心に川 尻に落ちのびた旭将軍木曽義仲の末裔の物語や生 活民具、農具を展示している。 尾道水道に面し塩の干満の差が大きく、塩分が 濃く風水害の少ない富浜に塩田を開いたのは芸州 藩御用商人、天満屋治兵衛で江戸期の延宝年間か ら200年にわたり製塩業が営まれた。最盛期に は32ヘクタールにおよんだ。家運は隆盛を極め、 烏崎一帯を庭園にして山麓に別荘を建て「海物園」 と名付けた。林池園趣と自然の美しさから安芸の 宮島、向東の賀島とともに芸州3名園として知ら れ、文人墨客の往来が多かった。庭内の茶室は千 利休が太閤秀吉の好みに応じて独特の雅味を加え 数寄をこらして桃山城に造った露滴庵を拝領した ものでのちに浄土寺の望みで寄進した。西側の山 に供養塔があり、ここで詠んだ多くの詩文や和歌 が残されており、壮大さが偲ばれる。 海物園の母屋の棟瓦や沼井模型=写真上=、粘 土叩きの道具など製塩業に関わる品々が展示され ている。 平安時代、木曽義仲が粟津ケ原合戦で敗死し重 臣太夫坊覚明が義仲3男義重と家臣30数人を伴い 川尻の地に落ちのびて土地を開拓、農耕改良に尽 くした。住民はその徳を慕い農業の守護神、覚明 神社、三十六苗荒神を建て敬った。義重と覚明は のちに一族の自立を見届けると言って信州に帰っ た。 義仲と妻巴御前のミニチュアの銅像、太夫坊覚 明の年譜、毎年聞かれていた木曽義仲ゆかりの会 の活動などが紹介されている。 町内の篤志家から寄贈された古文書も展示され 江戸時代、西国33カ所の順礼や道順を記入した 「西国順禮細見大全」=写真中=、「天保大雑万 歳暦」や明治時代の文の書き方を綴った「天下一 品明治用文」などが目を引く。 農業が盛んな処で農機具が沢山、並べられ江戸 時代の稲や麦の実を落とす竹せんばや明治中期の 人力で回転さす茣蓙織機、水田の葦を刈る爪の長 く曲がっている除草機と今では珍しい農具が見ら れる。 大正末期、清浦奎吾総理大臣が亀森八幡神社に 参詣し記念撮影した写真も出品されている。 向島町に人が住みはじめたのは縄文時代からで 石斧=写真下=や縄目の模様のある素焼きの深鉢 が出土している。 塩田、造船、農業がこの島の暮らしを支えてき たと言える。 [向島民俗資料室] 向島町立花2200。毎週 火曜日が休館。開館時間は午前9時から午後5時。 電話は0848・45・2319。 |