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2006年4月8日(土) 市技の「囲碁」 6月7、8日の両日、西山別館で本因坊戦 囲碁の館20年4月開館 本因坊秀策の生家の復元や資料館 |
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因島出身で江戸時代末期、「碁聖」と尊ぱれた 本因坊秀策の生家を復元し記念資料館を併設する (仮称)「囲碁の館」計画が尾道市に引き継がれ 今年度用地買収、来年度建設を終え平成20年4月 にオープンの運びとなった。 旧因島市の「市技」だった囲碁を新市でも「市 技」に制定し普及に努めている。 「囲碁の館」は昨年度、因島で基本計画を策定 し、それを引き継いだ新尾道市で今年度、640 0万円で実施設計と用地買収に入り、来年度、本 因坊秀策の生家と記念資料館を建設、再来年4月 にオープンする。総事業費は2億5000万円。 生家跡にある石切神社周辺1200平方mを買 い増し、生家は木造平屋建て延べ78平方m、記念 資料館は木造平屋建て延べ497平方mで江戸時 代の農家を彷彿させる建物を再現する。 資料館は生家桑原家や尾道の橋本家、日本棋院 協会から掛け軸や書、秀策が使っていた碁盤や碁 石、番付表など秀策ゆかりの品々を借り受け展示 する。 本因坊秀策の生誕地ということで囲碁による街 づくりを目指してきた因島は昭和30年に日本棋院 因島支部を設立、55年から本因坊秀策囲碁まつり を毎年開き、平成9年に囲碁を市技に制定した。 子ども向けの「虎ちゃん囲碁まつり」、碁ランテ ィアが出前で宿泊客と碁の対局に応じたり、市民 会館に碁楽室を設置し初心者教室を開催。公民館 や学校で子ども囲碁教室を開き、老若男女に囲碁 の普及をはかり、裾野が広がっている。 昭和58年9月21日、名人戦を皮切りに本因坊戦、 棋聖戦、碁聖戦、王座戦、天元戦、十段戦と囲碁 の7大タイトルが秀策の生誕地因島で開かれ、名 実とも囲碁のまちになった。合併後6月7、8の 両日、西山別館で本因坊戦が開かれ、新市の市技 として引き継がれる形となった。 [本因坊秀策の略歴] 江戸時代文政12年(1829)5月5日虎の刻 に桑原和三・カメの次男として誕生。幼名は虎次 郎といい、2〜3才の頃から碁石を玩具がわりに して育った。4才の時、母カメからてほどきを受 け6才の時には近郷にかなう者がおらず神童と騒 がれていた。 7才の時、三原城主浅野甲斐守忠敬と対局、棋 力を認められ、浅野公のすすめで天保8年(18 37)、9才の冬に江戸にのぽり、官賜碁所本因 坊丈和の門に入った。 11才で初段となり翌年初めて帰郷、浅野公か ら棋力が格段に上がったと賞され5人扶持を賜り、 16才の時には12人扶持と破格の待遇を得た。 4段に昇進18才の時、大阪で井上幻庵8段と対 局、世にいう「耳赤の妙手」をもちいて全勝、世 間を驚嘆させた。 20才5段の時、第14世本因坊秀和の跡目相続人 として12代将軍徳川家慶から正式に認められ、6 段に昇進した。21才から将軍の御前試合に出仕し、 お城碁が廃しされるまでの12年間、19連勝という 前人未踏の大記録を打ち立てた。 しかし江戸を襲った悪病のため明治維新が樹立 する6年前の文久2年(1862)8月10日、34 才の若さで亡くなった。 秀策は棋力に秀でたことは勿論、人柄も円満で 高潔だった。古今を通じて「碁聖」と仰がれてい るのは第4世本因坊道策と秀策の2人で秀策の偉 大さを物語っている。 |