2006年2月23日(木)
市文化財係の説明文
 橋本家の由来と歩み
  凶作時や公共事業で多大な貢献
橋本家住宅
 橋本家庭園の改修にあたって、担当の市文化財
係が事前に作成している「文書」があるので、こ
れを紹介する。

橋本家住宅(爽籟軒)について
 尾道は商都として平安時代末期から発展し、特
に足利将軍家の庇護を受けた室町時代、或は江戸
中期(文化文政期)、明治大正・昭和中期まで大ま
かに三度の黄金期を迎え、芸州浅野藩時代は、政
事は広島で、経済は尾道で、と言われるように芸
州藩唯一の公認港として北前船の寄港や瀬戸内各
所、大阪、九州との交易が行われた。
 江戸時代中期以降の北前船の寄港に伴い、江戸
時代は出雲藩屋敷(現在の島居家)が置かれるな
ど、西日本地域において米穀をはじめ、塩や乾物、
畳表などの相場に大きな影響を与える経済的地位
を占めていた。
 こうした経済活動を通じて商人は富の蓄積を重
ね、豪商と云われる大商人が出現してくる。彼ら
は本家、分家など同族が垂直的経営形態である同
業種、又は水平的経営形態である異業種を生業と
するかは別として、巨大な資本蓄積を実現してい
る。
 橋本家は屋号を「灰屋」と称し、当主は代々
「次郎衛門」を名乗っていた。分家は「加登灰屋」、
「西灰屋」の二家であり、他の豪商と比べて分家
が少ないこと、業種も本家灰屋が米卸問屋、造酢
業、絹問屋が主な生業であったが、加登灰屋は質
屋・両替商、塩田・新田開発・土地借家経営を主
な生業とするなど、基本的に水平的同族経営形態
を特徴としていた。
 橋本家住宅の所有者である橋本家は、上記の
「加登灰屋」(橋本吉兵衛家)で、特に江戸中期
以降には橋本宗久以降、本家灰屋を凌ぐほど大き
く隆盛し、文化文政期の橋本吉兵衛(通称「竹下」)
に代表されるように、尾道町の町年寄など尾道奉
行の下で要職を努めるとともに、一族からも尾道
を代表する名士を多く輩出している。
 特に近世近代では、橋本吉兵衛家は、天保8年
に芸州浅野藩と尾道商人の協同で開設された尾道
諸品会所(のち尾道諸品会社)に深くかかわり、県
内初の銀行である第六十六国立銀行(のち第六十
六銀行)の初代頭取、或は尾道貯蓄銀行役員、頭
取などの要職を務めるなど、地元金融機関設立・
運営の中心的役割を担い、天野家、島居家ととも
に尾道の顔ともいうべき存在であった。のち、大
正9年には、第六十六銀行と第百四十六銀行と合
併して芸備銀行が発足した際の初代頭取、昭和8
年から昭和40年3月までの永きにわたって芸備銀
行(のち広島銀行)頭取を務めるなど、時代とと
もに尾道経済界の顔から広島県経済界の顔へと、
橋本家は大きく発展・変貌を遂げていった。
 現在尾道市久保二丁目に残る橋本屋敷は、江戸
中期以降から橋本吉兵衛家が浅泥海を埋立て開拓
した土地にあって、近世山陽道東端で坊地川西側
に位置している。
 橋本吉兵衛家は、もともと現在の尾道市長江公
園、スーパー鶴屋から山陽本線に至る区域を本宅
とし、住吉浜北旧山陽道(現中央商店街西京町)沿
いの店舗で生業を営んでいたが、こうした土地開
発行為によって生じた土地の一部を別荘として建
設されたのが現在の橋本屋敷(通称「爽籟軒」)
であり、その後、市街地を東西に分断する山陽鉄
道(現JR山陽本線)や国道2号線の敷設など猪
股の事情により、先代「龍一」氏の時代には、現
地が生活の中心となったようである。
 現在残る居宅は、「龍一」氏ご結婚に際し建設
されたもので、離れ座敷の建築は本宅より時代が
少し下っているようである。また、本宅玄関東側
から北の土蔵に繋がる部分へは、「龍一」氏によ
って、昭和30年頃に茶室が造営されているそうで
ある。
 ところで、橋本吉兵衛は豪商としての経済人の
顔ばかりでなく、文化的要素、或は庶民救済など
の慈善事業要素を多分にもった家系でもあった。
 例えば近世を代表する学者である頼春水、山陽
親子や本因坊秀策は故郷の竹原や因島へ帰省、又
は上方へ上京する際に、しばしば尾道へ立ち寄り
逗留しているが、こうした際にその多くが橋本吉
兵衛家への滞留であった。
 頼親子や本因坊秀策、管茶山、田能村竹田等に
対して橋本吉兵衛家はパトロン的役割を果たして
おり、こうした関係から頼山陽は橋本吉兵衛(竹
下)へ大作「耶馬渓図巻」を贈呈し感謝の意を表
している。また本因坊秀策からの書簡等をはじめ、
数々の文人墨客との交友記録(書簡、漢詩など)が
橋本吉兵衛家に保管されている。
 歴代橋本吉兵衛の中で文人墨客との親交と慈善
事業は通称「竹下」の時代が特に有名であるが、
現在植栽されている樹木の年齢や庭に存する坊地
川の水を引き込んだ池、妙喜庵待庵式茶室を備え
た茶室、露地、待合から推定すれば、橋本吉兵衛
(竹下)の時代には現在の本宅を除き他の建造物、
植栽の主だったものは整備されていた可能性があ
る。
 とすれば橋本吉兵衛(竹下)と交友があり、し
ばしば尾道(橋本家を含む)を訪れた頼親子、本
因坊秀策の他、管茶山、田能村竹田、梁川星巌、
宮原節庵、浦上春琴など蒼々たる文人学者は、現
在残る庭を眺め漢詩を作り、或はお茶を愉しみ、
談義をされたことが考えられる。
 こうした経過からこの橋本屋敷は、単に豪商屋
敷としての価値に留まらず文人墨客との交友の中
で伝え残されてきた多くの漢詩や絵画が生まれた
素地を育んだ屋敷としての価値を具備している屋
敷である、と言えよう。
 こうした経過を踏まえ、これら建造物や遺構が
保存されることは尾道市において経済・産業・文
化的遺構が伝え残されることを意味するうえで大
変意義深いものであり、特に池、茶室、露地、待
合は一連の構造であり、このうち一つでも欠けれ
ば存在意義は大きく損失することは言うまでもな
い。
 最後に慈善事業について少し触れる。
 江戸時代中期以降全国的に凶作が多発し、尾道
でも例外ではなかった。事業実施にあたってでき
るだけ尾道町民が従事できるよう腐心した。結果、
労働の対価として支払われる賃金、或は米穀等に
より、当時尾道町では飢饉に伴う餓死者が殆ど発
生しなかった、と伝えられる。また、広島銀行百
年史によれば、橋本吉兵衛(竹下の孫。号を海鶴
と称する。文久2〈1862〉年〜大正13〈19
24〉)は、明治26年当時には、公共事業及び慈
善事業に対し、個人寄附として年間3600円程
度拠出されていたことが判る。
 このように橋本吉兵衛家は、代々有能な経済人
であり、文化人であるとともに慈善活動家を輩出
した尾道でも特筆される家系であったことが理解
できる。



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