山陽日日新聞ロゴ 2003年12月27日(土)
兼吉、瀬尾さん
葛飾柴又の矢切の渡しからも注文
 『森の名手・名人100人』に
   全国で唯ひとり、伝馬船の「櫓」製造
木材に囲まれて作業
 森に関わる生業のうち優れた技を極め、技術・技
能者の模範になっている達人を選定、埋もれた森林
文化に光を当てようと社団法人・国土緑化推進機構
(木村尚三郎理事長)主催の今年度「森の名手・名
人100人」に和船の櫓を製造している向島町兼吉
瀬尾工作所経営、瀬尾豊明さん(61)がえらぱれた。
 広島県からは三次市の小径材商品開発の東さんと
2人推薦され、瀬尾さんだけが「森の名手・名人
100人」に今月中旬、選ぱれた。選定委員は静岡
文化芸術大学長の木村理事長をはじめ民俗学者の神
崎宣武さん、作家の立松和平さんら11人。
 材料の調達から乾燥、加工に至る一連の手作業に
よる櫓の製造技術を持つのは今や全国でも瀬尾さん
唯1人。
 昭和10年、向東町彦ノ上で父親、英雄さんが櫓の
製造を始め、豊明さんが生まれた17年、尾道水道に
面した兼吉の現在地に工場を移転した。
 子どもの頃から父親の仕事を手伝っていた瀬尾さ
んは尾道高校を卒業すると当然のように父親の跡を
継ぐべく櫓作りに励んだ。「櫓作りは見て習え」と
父、英雄さんからは一切、指導、助言はなく、見よ
う見まねで技術を磨いていった。
 最盛期は昭和35年から約10年間、1日に3本仕上
げていた。伝馬船に漁船、それに当時は貨物船の救
命艇に伝馬船が使われ、櫓は必需品だった。東は東
京の小笠原諸島一円から西は九州大分と西日本一帯
から注文が舞い込んでいた。
 精巧な漁船や遊漁船が出回り、材質も木造からプ
ラスチックに切り換えられ、櫓の需要は下火となり、
瀬尾工作所も今では多い時で年60本、少ない時は30
本足らずにまで受注が落ち込んでいる。櫓を作って
いる人も「親父が習った四国の宇和島も止め、琵琶
湖に1人いたときいていましたが、今ではどうでし
ょうか」と瀬尾さんが全国唯1人の櫓製作者に。残
念ながら後継者はいないという。
 業界では全国にその名が知れ渡り、映画フーテン
の寅さんでお馴染みの柴又の矢切りの渡しに6本、
東京江東区、木場の屋形船、鹿児島指宿渡しと有名
処から注文が相次いでいる。
 櫓は堅いイチイ樫と柔らかいシイ樫を結びつける
もので夫婦の絆として漁師は神棚に飾っているとい
う。
 「櫓作りは辛抱の連続で体で覚える以外、ありま
せん。櫓が短い程角度をきつくし、長い程角度を緩
くし、手の反り具合の微妙なバランスをとっていか
なくてはなりません。これは長年の勘に頼る以外な
いです」。
 そして「400〜500年と年輪を刻んだ木材を
使わせてもらう訳ですから、いい物を作り、お客さ
んに喜んでいただく、そうした気持ちで仕事に取り
組んでいます」。注文がない時も櫓を作り、技術の
錬磨に余念がない。「手漕ぎの和船と同じく、これ
からポチポチいきます」と話していた。

転載責任者メモ:尾道から向島の兼吉(尾道渡船の着く辺り)の方を見ると
        「ろ」と一文字ある建物が見え「なんだろう」と思ったら
        この「櫓の工場」なのです。


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