山陽日日新聞社ロゴ 2016年1月1日(金)
 本物から信仰の中、そして天下人・・
  新春尾道『猿』尽くし

 今年は申年。猿と言えば、山から下りて来て畑を荒らす、人に危害を加える、
とりわけ知能犯だから猪以上に厄介で油断ならぬなどと、とかく悪いイメージで
話題に上ることが多い。しかししかし、そうばかりではない。古の世の人々の中
では、そうしたマイナス的印象の反面で、猿を神に近い存在として神聖視する
面も多分にあった。尾道の内にも見える端的なところでは、山王さんのお使いと
しての猿であり、ここでは狛犬や稲荷の狐と同じ立場で猿が位置づけられている。
また、美作地方に猿神退治の伝説があり(今昔物語集)、これはヤマタノオロチ的
な存在として登場する猿神が勇者によって退治される話だが、これなども裏を返
せば人々から畏怖され、猿神として祭り上げられる特別な存在であったことを伝説
世界の中で偲ばせている。日本ばかりではない。中国を始め東南アジア地域では、
かの「西遊記」のヒーローである猿の孫悟空が、「斉天大聖」(せいてんたいせい)
の称号で神として崇拝されている(道教の神)。
 そうした神聖的に取り扱われる場合において、とりわけ日本でよく聞くのが「魔が
去る」或いは「勝(まさ)る」で、全くもっての語呂合わせ的発想に過ぎないにも関わ
らず、当時の人々は至極真面目且つ真剣に願いを込めたようで、京都御所の東北
の角(通称・猿が辻)、即ち鬼門の位置に御幣を担いだ猿の木像が安置されており、
鬼門から訪れる災厄への備えとして、猿が今も大役を果たし続けている。その御所
を含む都の中心から見て東北方位に、都の鬼門鎮護も担って位置するのが比叡山
だが、こちらの守護神(比叡山の地主神)である日吉(ひえ)大社は山王神(山王さん
の総本宮)で、神使は前述の通り猿。そうして見れば、桃太郎が鬼退治の一員に
加えたのも理に適った人選だったようだ。
 そうそう猿と言えば忘れてはならないのが豊臣秀吉。主君信長から「サル」と呼ば
れた後の天下人。因みに秀吉の幼名・日吉(ひよし)丸は、明らかに後世の創作だ
ろうが、猿に因む日吉大社にあやかっているのが面白い。天下人となったこちらの
サルも、何故か尾道とは縁深い。尾道秀吉伝説も含めての尾道猿尽くしで、魔が
去り行き、例年に勝るこの上無き良い年になりますように・・・[林 良司]

山王さんの猿

 夏祭りの始まりを告げる「山王祭」で知られる山脇神社(東久保町)にて、狛犬の
役割を担っていらっしやるお猿様。冒頭文の通り、山王さんのお使いが猿。総本宮
である滋賀県大津市の日吉大社では、「神猿」と書いて「まさる」と呼ばれ、魔去ると
勝るで、厄除けと必勝祈願に御利益ありと崇敬されている。因みに同社では二匹の
猿が飼育されている。尾道山王社では、単純に神使というだけでなく、民話を背景と
した猿とのゆかりが伝えられる。それが尾大生による民話紙芝居でも取り上げられ
た「瑠璃山の猿」で、その昔、瑠璃山で山火事が発生した時、山に棲む猿が騒ぎ立
てて山麓の人々に異変をいち早く伝えた。その功績を讃えて、有難い存在として祀
り上げられたという説。石像は向かって右が口を開け、左は口をつむいでおり、狛
犬に見る阿吽を踏襲した形式。口を開けた側かオスで、つぐむのがメスのようで、
そうして見ると左の方はどことなしかしぐさが女性的に映る。石像一対以外にも山
王さんは猿尽くしで、拝殿屋根には鬼瓦の代わりに猿がちょこんと乗るほか、拝殿
内には地元の崇敬者が寄進した猿の像が何体か奉納されている。夏の山王祭の
折には拝殿が開けられるのでお参りがてら拝観されては。

大山寺庚申堂の三猿

 庚申と書いて「こうしん」と読む。十干・十二支の組み合わせの内の「庚」(かのえ)
「申」を指す。この庚申の日、人の体内に居る「三戸」(さんし)という虫が密かにうご
めき始め、その人が寝入っている隙をついて常日頃の悪行を天帝へ報告する。そ
んな事をされてはかなわんと、人々はその夜は寝ずに明かす慣習が広まった。こ
れを「庚申待ち」と呼ぶ。その密告を防御・牽制する為に生み出されたものが、何
事も見ない・言わない・聞かない願いを託された「見猿・言わ猿・聞か猿」の三猿。



 庚申信仰は、尾道の内では長江の真言宗大山寺に根付き、境内に庚申堂が
建つ。ご本尊は「青面金剛」(しょうめんこんごう)という憤怒相の仏様(仏というよ
り明王や天の括りに近い)。その神使の如くに配されるのが三猿で、絵像の内に
も足元に描かれている。
 庚申堂では、60日に1回の周期で巡って来る庚申の日に信者(いわゆる庚申講)
が集まり、池原住職によって法要・祭典が営まれ、新年最初の日は「初庚申」、
その年最後の日を「終い庚申」と呼ぶ。この席では、祭典終了後に参詣客にお神酒と
共にお供えのコンニャクが振る舞われる。池原住職によれば、同様な風習は京都
方面での庚申さんでもあるようで、庚中には付き物となっているようだ。今年の初庚申
は2月8日(月)。
 庚申堂の前に建つこちらの三猿。よく見ると、「見て・言って・聞いて」と真反対の
三猿になっている。「今は昔と違ってめまぐるしい情報化社会の時代。飛び交う情報
に呑み込まれてしまうことなく、何事もよく見て・聞いて、言うべきことはちゃんと言って」
との願いが込められますと池原住職。まさに現代における三猿である。因みに建立
されたのは前回の申年で、今年でちょうど12年目となる。

福善寺墓所の桃を抱く猿

 大山寺の下に広がる福善寺墓所の一角(東端の位置)に、墓石に囲まれて一
基の猿の石像が建つ。尾道学の最初期でも本紙上で取り上げられた像で、当時
は「猿桃墓」などと呼ばれていた。しかし墓なのか否かは全く不明で、飼われて
いた猿のお墓か、もしくは故人が申年か猿好きかなどによるものかなどと諸説が
飛び交っていたが、恐らくこれはお墓ではなく、大山寺の庚申信仰とも通じて猿が
介在する何かしらの信仰によって造立されたものだろうと思われる。手には大き
な桃を抱えており、桃は桃太郎の桃もそうで、邪鬼を祓う魔除けのラッキーフル
ーツであり、風水では子宝のシンボルともされる縁起の良い果実。猿と桃の組み
合わせを辿れば、中国及び東南アジアに同様なモチーフが広く見られ、西遊記でも
[桃園]の番人を悟空か担うなど結びつく。これらは道教・神仙思想が生み出し
た産物のようで、魔除けと共に不老長寿への願いも込められる。

「藤半」の猿と蛙

 老舗料理店の藤半さんの入口で、お客さんを出迎え、見送っているのが
こちらのお猿さん。傍らには蛙が相棒をなしており、蛙は狸と共に縁起物
として飲食店ではよく見かけるが、猿との組み合わせは珍しい。その由来
について、尾道学的志向(嗜好)と鋭い嗅覚で、この街を掘り起し紹介され
ている路地ニャン公さんの解説によれば、『この石像は、料亭時代の「藤半」
にあったもののようだ。「サル(去る)ものも、待てばカエル(帰る)という縁
起ものの意味らしい」との事。更に路地ニャン公さんのリサーチによれ
ば、『この店のルーツは明治時代に遡る。初代・加藤對山が信州から尾道
へ移り住み、「更科そば」を開業したことに始まるという。その後、昭和10年頃、
料亭「衿半(えはん)」を引き継ぎ、「藤半(ふじはん)」と改名し、尾道の華
やかな時代を象徴する料亭となった』そうで、現在の形は昭和58年からにな
るという。



 ここにピックアップしたのは造像の猿たちだが、本物のお猿さんも忘れてはな
らない。そう、千光寺公園の猿山(猿が島)で飼育されている猿である。昨年
11/10付、幾野記者による山陽余韻によれば、最多の時には30頭いた猿も、
90年代に10数頭に減り、一昨年の暮れに最後のオスが亡くなったという。
現在は高齢のメスー頭が残り、どこか寂しげに映る。幾野記者も指摘
している通り、今は見向きもされなくなっているが、せっかくの当たり年
だけに再びスポットを当ててあげたい。
 最後にサル繋がりで秀吉ネタにも目を向ければ、こちらも尾道の内に
多く引っ掛かって来る。秀吉ゆかりの茶室(元々は伏見城内にあった)を
移築した浄土寺の「露滴庵」(ろてきあん)、本陣笠岡屋(小川家)が来尾した
秀吉をお茶でもてなした逸話(小川家文書に伝える)、その茶の湯に用いる
水を求めた先の長江の「柳水井」(りゅうすいい・現在は飲用できない)。秀
吉来尾は朝鮮出兵の折と伝えるが(史実か否かの真偽のほどは定かではな
い)、朝鮮出兵で狩出された漁師が戦死し、未亡人となった妻の為に、魚の
行商を天下公認の特権として保障したことを起源に伝える「晩寄り」、逆に
戦地から無事帰還した漁師が記念に持ち帰ったという朝鮮の石が、神棚に
祀られたとの逸話も採集される。また、長江・妙宣寺境内には、秀吉子飼い
の猛将・加藤清正を祀った「清正堂」が建ち、等身大の清正像が安置され
る。その他、老舗料亭の竹村家さんの内には、秀吉が京都に築いた政庁兼居
宅「聚楽第」(じゅらくだい、じゅらくてい)にあったと伝える石灯龍が二基
あり、意匠の内には豊臣の桐紋(写真)が見える。サルと呼ばれた天下人秀
吉に絡むネタも、以上のように点々と見受けられる。秀吉伝説も含めた尾
道猿尽くし巡りなども楽しいかもしれない。





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