山陽日日新聞社ロゴ 2012年7月13日(金)
レジェンド・オブ・ヒーロー..(2)
 第1回日本GPで3位
  補欠出場から表彰台、そしてトヨタ入り  
パブリカレース
表彰台の3人
 進駐軍のジープを運転していた少年、近所のモ
ータースでバイクの修理に従事した青年を経て大
人になった細谷さんは、当時吉和にあった尾道自
動車学校の教師の職にあった。
 自動車学校の先生から転じて、プロレーサー・
細谷四方洋(しほみ)が誕生するのは、昭和38年
(1963)5月、日本における本格的な自動車レー
スの最初として、三重県鈴鹿市の鈴鹿サーキット
で開かれた「第1回日本グランプリ自動車レース
大会」であった。
 その数年前に読売新聞社主催の日本一周読売ラ
リーで、総合2位入賞を果たした友人の岡本節夫
氏が、当時発売されて間もないトヨタの小型乗用
車「パプリカ」(トヨタ初の大衆車)で日本GP
へ出場。細谷さんはその補欠として自費で出場し
た。
 しかしメイン・ドライバーであった岡本氏が急
遮出場辞退となり、細谷さんが代わってハンドル
を握ることになる。
 日本GPに先立つ半月前、ライセンス取得とト
レーニングの為に初めて鈴鹿サーキットに降り立
った細谷さんは、「コースの出発点から最初の周
回はコースを覚えるためゆっくり回ったが、スタ
ート地点に戻って来て、なんで此処に帰ってきた
か判らないくらいに雄大なコースに驚きました..」
と鈴鹿サーキットの感想をふり返っている。
 出場部門はC−IIクラス(400〜700cc)。
競う他車は各県から選抜出場のトヨペット同好会
のパプリカなど。
 この時のタイヤは誕生したばかりのラジアルタ
イヤ(バイアスタイヤと異なりグリップ性能や高
速耐久性に優れる利点を持つ)で、まだ製品数が
少なく、全てトヨペット同好会によって買い占め
られて個人枠の細谷さんらには回ってこない。
 摩耗したタイヤを見かねたタイヤメーカーのダ
ンロップが、ホワイトリボンタイヤ(サイドウォ
ールを白く塗ったタイヤ)を無償で装着してくれ
たという。
 こうして完全ノーマル仕様のパプリカ700で
出走した細谷さん。周りはレース仕様に仕立てら
れた(ワークスチューニング)パプリカばかり。
仕様的にも性能的にも全てにおいて明らかに劣る
状況の中、一時は先頭に躍り出るほどの凄みの走
りを見せ、ワークスドライバー達を驚かせた。
 結果、細谷さんは表彰台に上がる3位入賞とい
う好成績を収める。
 その走りを見ていたトヨタのレース担当責任者
で、後に2000GTのプロジェクト・リーダーとなる
河野二郎氏に見込まれ、翌昭和39年(1964)1月
1日付でトヨタとプロドライバー契約を結ぶに至
った。細谷さん25歳の時である。
 トヨタからは生涯の仕事として、骨を埋める覚
悟で来てくれと言われたという。
 同年の夏、母親と夫人、二人の子どもを連れて
尾道からトヨタ本社のある愛知県豊田市へ移り住
み、トヨタ専属のプロドライバーとしてのポジシ
ョンを得る。
 「私ほどお金を使わず、メーカーとプロ契約し
たドライバーは珍しいと思います」と細谷さん。
 次回最終回では、プロレーサーとして、また、
2000GT開発プロジェクトーメンバーとして活躍し
た最盛期、チームトヨタ時代の細谷さんを見てみ
たい。
【写真】=(上)..第1回日本GPでパプリカを
走らせる細谷さん。先頭を行くカーナンバー21番
が細谷号、(下)..上位入賞ドライバー(右端が
細谷さん)。
                 [林 良司]



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