2012年6月1日(金) 新藤兼人さん逝く 警察官の実兄頼り東土堂町に居候 青年時代尾道で映画監督志す 映画で活かす自転車店の集金で島々歩く |
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名誉市民に選んでいる三原と並び、尾道にも縁 の深いシナリオライターで映画監督の新藤兼人さ んが亡くなった。「生きているかぎり生きぬきた い」の晩年の座右の銘の通り、最後まで現役を突 き通した100年の人生だった。 [幾野伝] ◎..1912年4月22日、新藤さんは広島市佐伯区五 日市町の大百姓の家の生まれだったが、お人好し だった父が借金の保証人になって屋台が傾き、14 歳の時に一家は離散。進学を諦めた新藤さんは、 尾道署の警察官になっていた実兄を頼り、尾道に 身を寄せた。 ◎..その居候先こそが、大林宣彦監督の実家であ る東土堂町の大林家が、敷地の一角に所有してい た民家だった。1934年、22歳で映画監督を志すま での数年間、尾道に滞在した。大林監督は38年の 生まれであることから、当時直接的な関わりはな いが、将来日本を代表することになる映画作家2 人が尾道の、しかもこの極めて狭い空間に暮らし ていたというのは、偶然ではあるが、しかし不思 議な繋がりである。 ◎..新藤さんは、土堂小学校下で仲卸をしていた 自転車店(山口輪業)に勤め、集金係として島し ょ部を担当。尾道を出ると何日も掛けて島廻りを し、監督はその時の体験や島の暮らしぶりを実際 に見聞きしたことが、『裸の島』などその後の映 画製作に大きく活かされたと話している。 ◎..33年の夏、尾道の映画館「玉榮館」でたまた ま観た山中貞雄監督の『盤嶽の一生』を見て、才 気溢れる新鮮な映像に感動し映画監督になろうと 一念発起、京都太秦に向かったという、 ◎..今は三原市がフィルムと上映権を買い取って いる『かげろう』(69年製作)は、そもそも尾道 で刑事だった時に実兄が関わったという殺人事件 をヒントにシナリオ化し、海岸通りや山手の民家、 千光寺新道、旧海岸マーケットの雁木、向島の造 船所、駅前などで撮影、43年前の尾道の姿が移し 込まれている。 ◎..晩年、尾道には10年前の2002年10月、新藤さ んが思い出の地を巡るNHKテレビの番組収録で 訪れている。「尾道に居た時には、将来の方針を 決めなくては、と気が焦っでいた。居候の身で肩 身は狭く、町は賑わっていたが、私は顔を上げて 歩くことが出来ず、人通りの少ない路地裏を選ん で歩いていた」と振り返っていた。 ◎..さらに後年、『墨東綺譚』(本来最初の字は さんずいに墨。第3水準 JIS外の機種依存文字) でロケをした千光寺登山道では、「桜の時期この 坂は、山に上り下りする人で賑やかだった。頭の 上に桶を乗せた魚売りの女性も坂を上っていた」、 「尾道には島から沢山の人が買い物に来ていた。 市村(御調)など山から物資が入ってきて、物々 交換していた」と昭和初期の尾道の光景を懐かし んだ。 ◎..自転車店の仕事については、「集金では因島、 生口島、大三島、伯方島、遠くは蒲刈島、江田島 まで廻っていた。一旦出ると、島の自転車店に泊 めて貰いながら、1週間から10日は帰らなかった。 島には人影がなく、春には除虫菊が咲いていた。 良い思い出です」と語った。 ◎..この時には、当時の亀田良一市長を表敬訪問 している。その後、『石内尋常高等小学校 花は 散れども』(08年公開)の竹村家(久保3丁目) でのロケが尾道再訪の最後となった。 |