2012年2月1日(水) 内山寿さん 元・映画看板絵師、今も現役・健在なり 絵筆1本の人生に悔い無し 大浜神明祭の看板今年も手掛ける |
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昨年、往年の映画看板を手掛けた看板絵師の作 品展が、元気の良い瀬戸田図書館で開かれた話題 を本紙でご紹介したが、尾道にも今だ現役で頑張 っている絵師(職人)がおり、その作品(看板) が近々出来上がるところ..との報せが新聞社へ寄 せられ、単なるニュースというだけではない、尾 道学的な匂いを感じ、情報をお寄せ下さった高須 町の(有)宣光社(増田玉輝社長)の工場を訪ね た。 [林 良司] 増田社長の案内で通された一室には、絵筆を握 り、黙々と看板製作に打ち込む内山寿さん(71歳) がいらっしやった。取材に動じることなく、作業 に集中するその後ろ姿はまさに職人である。 無口で小難しそうな職人のイメージを抱きがち ではあるが、内山さんが絵師として最も輝いてい た時代、映画館全盛期の昔話を向けると、よくぞ 聞いてくれたといわんばかりに、溢れ出すように 語り出された。 この道に入ったのは中学を出た16歳の頃。自分 から飛び込んだのではなく、看板絵師の師匠であ る村上喜一さん(故人)に見出されてのことだっ たという。 小学生の時、自分の描いた絵を見た村上さんが、 この子を弟子にしたいと、内山さんの父親に打診 したことに始まる。 以来、村上さんの下で実践による修業を重ね、 師匠と共に映画看板を描き続けた。看板は絵だけ でなく、そこには併せて文字が入り、こちらの技 量も問われて来るとあって難易度は高い。 映画館全盛期(黄金期)であった昭和30年代は、 てんてこ舞いの忙しさだった。駅前松竹に太陽館、 セントラル、千日前に4軒(玉栄館・スバル座・ 日活・東宝)、祇園座..映画館の数も多い。その 上に1週間単位で封切りされるから、次から次へ と仕事に追われる毎日。 ただ描くだけではない。描いた看板を取り付け て回るのも仕事の内だった。大八車に大きな看板 を乗せ、師匠と共に防地口、長江口、渡し場、駅 前と、国道沿いに映画看板を立てて回った。時に は警察から文句を言われることもあった。 映画看板を描く作業場は、その上映館の暗いス クリーンの裏側。怪談映画の看板を描く時なぞは 怖かった。 師匠との二人三脚、師匠は役者の顔など″ええ ところ″を主に描き、自分はその他を任されるこ とも多く、ちょっと″はぐいい″気持ちも無くは なかったが、師匠と共に映画看板と奮闘した日々 は、決して忘れることが出来ない黄金の日々。 その後、映画館が下火になって以降、師匠と共 に映画看板から一般の看板へ転向し、今に至る。 土堂にあった看板屋・口○(カクマル)堂へ入 り、内山さんはここで増田さんと出会った。増田 さんは村上・内山コンビによる映画看板を見て、 自分の進むべき道を看板業に決めたのだという。 そうしてここで二人は義兄弟と呼び合う仲となり、 増田さんが独立して以後もその関係を保ち続け、 宣光社が請け負う昔ながらの手描きの看板を現役 で描き続けている。 内山さんの手仕事(職人技)によって作り出さ れる看板は、パソコン出力の現代看板では出せな い、手描きならではの味わいと風格を如実に漂わ せる。それはまさに看板の中に魂が入っていると いってもよい。 「ここまで絵筆一本で生きて来ました。若い頃 は、周りの友達が高校生になって勉強に遊びと青 春を謳歌している中、自分だけ全く異なる世界に 身を置いているとあって、後ろめたさや存在を隠 したいという気持ちも正直ありました。しかし、 今振り返って見た時、絵筆一本で歩んで来た人生 に悔い無し..そう思っています」。そう語る内山 さんの顔は実に誇らしげで、カッコ良いその生き 方にこちらのハートも揺さぶられた思い。 内山さんが手掛けた最新作は、因島大浜町(大 浜公民館駐車場)で2月の第一日曜日(5日)に 開かれる「大浜神明祭」(とんど)の看板。同地 は内山さんの出身地であり、看板の製作は毎年の 恒例。今年は特に還暦を迎えた甥っ子からの頼み もあって、より力が入ったという。2枚の縦長看 板の製作期間はわずか2日間(一人作業)。 内山さんは取材を終えると再び看板と向き合い、 また黙々と筆を走らせていった。 【写真】=上..内山さん、下..出来上がった看板 を囲み内山さんと増田さん(向かって右)。 |