山陽日日新聞社ロゴ 2011年8月24日(水)
祇園さんの三体神輿廻しでの素朴な疑問
 神輿洗いが意味するものは?
  尾道学研究会 林 良司
海に漬けられた神輿
 やや旧聞の話題になるが、祇園さんの三体神輿
において、今年も一番着けとなった神輿(今年は
十四日・長江の二つ巴)が海へ入った。ここ何年
かは安全最優先と神輿のダメージ防止の観点から、
海へ入れる事は御法度の如き扱いになっていたが、
常称寺への里帰り以来、原点回帰による祭りの再
活性化の試みに乗って、昨年度の祭りでその封印
が解かれていた。
 神輿を海へ入れる行為は、担ぎ手の勢い余って
の場外乱闘ではなく、「神輿洗い」と称するれっ
きとした伝統ある神事的行為なのであるが、神輿
の保全を第一とする神社総代や長老衆などは入れ
て欲しくないというのが本音。今年は昨年の前触
れ(心の準備)があった為、慌てふためく長老衆
から、厳重注意のお叱りを頂戴する事態には至ら
なかったが、一方で神聖な神様を清める必要があ
るのか?という素朴な疑問の声が上がった。
 確かに罪穢れた人間ならともかく、既に清まっ
ている神様を清める必要はないだろうというのは
一理ある見解。であるにも関わらず、祇園さんの
神輿は何故に海へ入らねばならないのか?−。
 神輿洗いを正規の神事行程に組み込んでいる本
場京都の例を参考までに見ると、神輿洗いは御神
霊(みたま)を載せる前段階で実施され、こちらは
海ではなく、鴨川の水を汲み上げてそれを神輿に
注ぎかけている。神様が乗る前での清めならば、
こちらは納得出来る形といえようか。しかしこち
らも解せない点が一つある。京都も尾道同様に三
体神輿の構成になっているのだが、神輿洗いで担
ぎ出される神輿は「中御座」と称する神輿のみに
限られている。誰もそこに疑問の目を向ける人は
いないようだが(昔からの慣例で当たり前になっ
ている)、神様を清める尾道の不可解に同じくこ
ちらも謎の部分である。
 中御座の神輿に注目してみると、この神輿は祭
神首座にあるスサノオ神が乗るもので、尾道では
久保の「一つ巴」に相当する。スサノオ神が乗る
神輿だけは清めなければならないというわけだが、
単にメインだからという答えも容易に返って来そ
うな一方で、そんな単純な話ではない、もっと奥
の深いものがあるとすれば..。そこで更にスサノ
オ神をクローズアップして見ると、スサノオ神輿
を清める一理ある部分を神話の上で見出す事が出
来る。
 スサノオと言えば、神楽でも馴染み深いあの八
岐大蛇退治のヒーロー。神様として祀り上げるに
相応しい神だが、オロチへ辿り着く迄、即ち前段
の「天の岩屋戸」では、英雄どころかとんでもな
い神様として描かれる。
 姉・天照大神の治める天上高天原に乗り込み、
田畑を荒らし、神聖な神殿に糞尿を撒き散らし、
挙げ句の果てには皮を剥いだ馬を機織りの御殿に
投げ込み、機織女を死に至らしめる。弟の乱暴狼
籍に心痛めた天照が岩屋へ龍もり、天地は真っ暗
闇になるという始末。
 ここに見るスサノオはとんでもない悪神、災厄
をもたらす疫病神なのである。その恐ろしいスサ
ノオを祀って厄除けを祈るというのが祇園さんで
あり、それはまさに″毒をもって毒を制す″の発
想。つまりスサノオは神様ではあるけども、十二
分に清まって頂く必要がある神様といえるものが
あるのだ。自身が帯びる厄災を清浄化させ、その
強烈な力を厄災を退ける(大蛇を退治する)プラ
スの力に変換させようというのである。事実、ス
サノオ神の神徳(御利益)の内には、心身清浄が
ある。
 厄災の根源が暴れ回り(けんかみこしの荒ぐれ)、
その厄災を海で清浄化させる図式を、ここに思い
描くのである。
 厄を水の力で流し去る「雛流し」の如く、海の
彼方へ流す発想も、或いはあるやもしれない。独
特な三体廻しの所作も、その光景が渦を巻く様に
も捉えられる事から、これも水・海に通じる節が
ある(巴紋も水が渦巻く形を表すともいう)。
 神様を清める不可解も、スサノオに限っての、
祇園さんの祭祀形態に限っての特殊事情とにて、
どうにか納得するものがありはしないか。と言っ
ても全ては推論に過ぎないので、それらしい言い
分けを強引に考えたものよとのお声を頂戴しそう
だが、神事の一環である「神輿洗い」を読み解け
ば、そういった背景が、あくまでも仮説その1で
はあるが、指摘出来る。
 因みに今年の海入りは二つ巴、即ち紅一点の女
神・櫛稲田姫(スサノオの妃神)であったが、来
年は本体であるところのスサノオ神輿が海へ入れ
られる、いやそんな穏やかな言い方ではなくして
「ぶち投げられる」のを、密かに期待している。
【写真】=海中で回される神輿(木下琢啓氏提供)。



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