山陽日日新聞社ロゴ 2011年7月17日(日)
府中延藤家文書から
古文書解読の半田堅二さんがまとめる
 江戸末期尾道町の地価
  最高値は薬師堂界隈で坪156万円
江戸時代の古地図
 江戸時代末期(幕末)の尾道町(久保・十四日・
土堂の旧市街)の土地相場、いわゆる地価の状況
を、古文書解読で尾道学研究会、図書館の古文書
教室で活躍中の半田堅二さんが、備後府中の商家・
延藤家〈味噌屋〉の古文書から拾い出し、江戸後
期の古地図【尾道町絵図】上に落とし、江戸の尾
道地価相場マップを作成した。
 半田さんからのレポートは次の通り。

 広島県立文書館に所蔵される備後府中の「延藤
(えんどう)家」(屋号・味噌屋)文書(江戸末
期)の目録から、尾道が記された部分をこのほど
解読してみました。延藤家文書は量が豊富で、そ
の全てが金融関係の内容で占められていました。
 文書は府中の延藤家と、尾道の「菅屋店久助」
との間の手紙のやりとりや、証文の控え等になり
ます。
 主な内容としては、栗原塩浜、吉和塩浜、向島
塩浜の塩田売買と、尾道町内の家屋売買の記録が
見られます。これをそのまま訳しただけでは内容
の把握は出来ないので、文政四(一八二一)年の
【尾道町絵図】(油屋亀山家旧蔵、原本・尾道市
立中央図書館蔵、藤井吉蔵氏作図復刻)に落とし
てみる事にしました。
 それで見えてきた事は、本通りより北(山手)
側の土地は、銀五貫匁=現在の貨幣価値で二千万
円・坪六十万円位の物件が多く、比較的安いのに
対し、本通りより南浜側の土地は、銀五貫匁位の
も一部にありますが、銀十貫匁=四千万円・坪六
十万円から銀二十七貫匁=一億一千万円と、二倍
から四倍位も高価です。
 坪単価で最も高いのは本通り南側・薬師堂通り
東側、現在の十四日元町、尾道通り商店街から海
岸へ下る曲がり角の八百屋さんの所で、坪百五十
六万円となっています。
 サンプルとしては資料が少ないのですが、とり
あえずの目安になるかと思います。

 マップから主だった箇所を以下にピックアップ
してみると・・・
 ◆久保町界隈
 久保2丁目藤半付近=銀一貫目、四千万円、坪
19万円◇久保本通り=銀二貫五百目、一千万円、
坪42万円
 ◆十四日町界隈
 本通り〜米場町間の屋敷地=銀二十貫目、八千
万円、坪48万円◇鶴屋付近=銀五貫目、二千万円、
坪102万円◇薬師堂小路本通り角=二十三貫目、
九千万円、坪156万円◇薬師堂浜付近=銀三貫
目、一千万円、坪28万円◇艮神社前=銀五貫目、
二千万円、坪76万円◇中央街・富半付近(本通北)
=銀四貫五百目、二千万円、坪68万円◇中央街・
尾道浪漫珈琲付近(本通南)=銀九貫目、三千六
百万円、坪104万円
 ◆土堂町界隈
 絵のまち館付近北側=銀五貫匁、二千万円、坪
60万円◇同南側=銀二十貫目、八千万円、坪40万
円◇西京(橋)町付近L銀六貫目、二千四百万円、
坪46万円◇広銀尾道支店付近(津国屋小路)=銀
十九貫五百目、八千万円、坪51万円◇東渡場町本
通南側=銀八貫目、三千万円、坪100万円◇西
渡場町木通北側=銀四貫七百目、二千万円、坪61
万円。

 もう一つ思った事は、文政四(一八二一)年の
地図にある名前が、この時代=嘉永六(一八五三)
年の記録には無く、すっかり変っています。これ
は、本宅を売っている訳ではないと思いますが、
抱え(所有)の家屋は商品の様に考えて、資金調
達の為に抵当に入れて資金を調達し、積極的に商
売をしている為と思われます。また、同時代に出
来た金融機関「諸品会所」の準備資金五千両(天
保10年)にも繋がるものがある様に思います。農
村では先祖からの土地を大切にして、田畑を売る
のは少ないと思いますので、これも商人の町の特
徴の一つかと思います。
              (報告・半田堅二)



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