山陽日日新聞社ロゴ 2011年4月10日(日)
尾道をゆく
 御調の御袖天満宮
  尾道学研究会 林 良司
古びた社殿
 街道散策の達人の案内で、銀山街道の御調区間
を歩いていた道すがら、御調高校傍で「御袖天満
宮」はこちらとの手製の案内標識に目が留まった。
御袖天満宮と言えば、長江にある55段の石段で名
高いそれを誰しも思い浮かべるが、何故かここ御
調の里に御袖天満宮があるというのだ。
 案内標識が指し示す方向を進むと、後口(うし
ろくち)山の山麓斜面に拝殿・本殿の古びた社殿
が見える。町中の神社にない静けさと佇まい..山
里の小社は″鎮守の森″の風景そのものである。
 社前で配布される由来資料によると、その名の
由来はやはり長江の御袖天神にあり、こちらは長
江に遅れること143年ないし149年後の建保
年間(1213〜1219)の創立という。
 かつては約100mの石段が続き、更に高い位
置にあった様だが、明治30年代初頭に現在地へ遷
座したと由来は続ける。
 しかし長江と同一名称になった由来については
判然とせず、「長江に始まり、御調に落ち着いた
もの..」といった言及に止まっている。単純に考
えれば、菅公の伝説で名の知れた長江の御袖天神
を御調の地へ勧請(分祀)したところから、社号
も同一で呼ぱれるようになったと見るのがもっと
もらしい説になるであろうが、『広島県神社誌』
記載では、勧請元は北野と並ぶ本家本元の太宰府
天満宮よりとしている。
 今一つ考えられるのは、長江或いは本家勧請以
前より社祠自体は存在し、八幡宮を始めとする時
の流行神に乗っかる形で、古い祭祀が塗り替えら
れたという解釈。
 山里の社祠に「天神社」と称すも菅公ではない
別な天神を祀っている例が点々とある。ここで言
う天神とは、固有名詞を持たない漠然かつ素朴な
「天の神(国津神に対する天津神)」を指し、神
話を踏襲して神号が特定される以前の古い形を伝
えるものである。
 こちらも農耕神としての古い天神から、新たな
天神菅原道真へ、いつの時代かに転じた匂いを感
じるが、事の真相は分かる由もない。
 因みに百島にも、御袖に近い「袖之天満宮」
(福田地区鎮座)があり、ここでは長江同様の伝
説を由来として語っている。
 まだまだ知らないこと、再発見されるものが沢
山転がっている事を、街道歩きの道中で改めて痛
感させられた次第。尾道をゆく、まだまだ行かね
ぱならないようだ。
 ※『御調文学』最新号(既報)の内には、郷土
研究として住貞義量氏による「天満宮信仰と町内
の天満宮」の寄稿が掲載されている。



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