山陽日日新聞社ロゴ 2011年月5日(土)
尾道鉄道の思い出
 女学校通学への鐵路
当時の踏切での記念写真
 昭和の時代、私は四年間ほど「尾道鉄道」を利
用していた。尾道の高等女学校に通学するためだ
った。電車には毎朝五時半に乗ることにしていた。
学生、工場や造船所で働く人、あるいは仕入れへ
と向かう行商人もこの時間の利用だった。
 学校から帰るときは五時十五分発の電車をよく
利用していた。この頃になると駅のホームは帰宅
する人たちでいっぱいだった。改札口をくぐると
プラットホームに流れる歌はいつも決まって「暁
に祈る」や「帰り船」だった。戦中、戦後の複雑
な心情を寄せる毎日だった。
 戦時中で男手を失っていたこの頃は、車掌や運
転手を務めた女性も多かった。そんな当時、重要
な仕事の一つが「ポール掛け」だった。電気を伝
える金属棒のことをポールというのだが、下り坂
で電車が速度を増すところがよく外れた。窓の外
に身を乗り出し、仰向けになってポールを必死で
元に戻す。よく見た光景だった。
 二十年の九月だったか、この時はとても強い暴
風雨に見舞われた。その時は学校から五里もある
我が家まで歩いて帰った。歩き続けて足が豆で痛
かった。漕ぎ着くように家まで帰った。
 畑(はた)の下付近では土砂崩れで線路が遮ら
れていた。電車での通学ができなくなった私は、
実家からリュックサックに重いお米を背負って尾
道の伯父の家へと向かった。より学校に近いその
伯父の家に住まわせてもらいながら歩いて通学し
ていた。
 私にとって尾道鉄道とは「かけがえのないもの」
だった。今回は時代背景の追憶として原稿を書か
せていただいたが、今更ながら当時の何倍にもな
って尾道鉄道のありがたみを実感する。「かけが
えのない」尾道鉄道に私はどれほど恩恵を受けて
いたのか?。原稿を書く中でそのありがたみを見
出させていただいている次第でございます。尾道
鉄道はその運営に携わってこられた数え切れない
多くの人々の尽力あっての賜物でした。この場を
借りて心から感謝申し上げます。過ぎ去りし日を
思い出しての一言に致します。
 (源田ヒロ子さん)
【写真】=昭和20年、女学校通学当時の源田さん
と国鉄の線路標識。



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