山陽日日新聞社ロゴ 2011年2月20日(日)
尾道鉄道各駅停車回想記・・・3
 本日も延着
 『御調文学』より 虹野 かな太
 私は中学時代からラジオを組み立てたりする電
気工作が好きだった。読んでいた誠文堂新光社出
版の「無線と実験」に掲載されていた電波発信機
の記事に興味を持って、自分で組み立てたことが
ある。中波帯域の電波を出すので当然電波法違反
になるが、当時そんな知識もないままに、近所の
ラジオ受信に差し支えない時間なら良かろうと思
って、NHKラジオの終わった夜半に自分のラジ
オを受信機にして送信していた。
 この話を高校入学後に三次君に話して配線図を
書いて渡したことがあった。一年生の二学期早々、
学校の電気科科長でクラス担任だった若林先生か
ら職員室へ呼び出された。何も考えずに行ったら
三次君が下を向いたまま黙って立っている。若林
先生は私を見るなり
 「おい、虹野、君がつまらんことを教えたんか
いな」
 と言われた。
 「えっ、なんでしょうか」
 「三次がごっつう怒られてなあ。電波監理局か
ら十分指導してくれ言うて連絡されてきたんや」
 どうやら三次君は私が渡した配線図で電波発信
機を作り、家が立ち並ぶ自宅で昼間に送受信の実
験をしたらしい。近所の人がラジオに雑音が入る
ので尾道市内にある中国電波監理局尾道出張所へ
苦情の電話をしたので、大目玉を食らった上に、
学校へも連絡されたようです。
 中国電波監理局は広島市にあるが、当時は尾道
周辺の向島や因島の造船所で建造される船舶とか、
修理される船が沢山あったので、尾道に出張所が
設けられていた。高校三年の課外実習でこの出張
所に行き、電波監理局の仕事を体験することにな
り、南氷洋から戻って日立造船向島ドックで修理
中の捕鯨母船・多度津丸無線室の通信設備検査を
学習したことで、電波監理の重要性を改めて知っ
た。
 若林先生から私が組み立てた発信機を見せるよ
うに言われて持参したら、「この発信機の出力は
何ワットや?」と問われた。そんな知識も禄にな
いまま作ったことを知られた先生は「アホたれ」
の一言。大阪ご出身の若林先生から口癖の大阪弁
で叱られたことが懐かしい。
 木梨口駅を発車して間もなく、線路の両側に広
がる風景は人家が連なり一段と賑やかになる。車
窓から天力酒造の大煙突が見えると三成駅に到着。
この駅のすぐ側には尾道鉄道の動力源となる火力
発電所の煙突や車両整備の建物が建っていた。こ
の駅で二番電車の乗客はすし詰めになる。三成駅
を発車した電車は尾道鉄道第二の難所である仙人
峠と言う三成の坂にさしかかる。
 平坦な市街地走行用に設計されている車両を、
勾配の強い中山間地の鉄道に転用したと思われる
電車は、立錐の余地無く(少々大袈裟かな)詰め
込まれた乗客に耐えきれずノロノロと進むが、い
まにも止まりそうになる。
 ひょうきんな乗客から声が掛かる。
 「おーい、学生諸君。隆りて後ろから押しちゃ
れーや」
 声を掛けられた学生かちは、
 「おじさん、押しちゃるけえアルバイト代を払
うちゃってよ」
 掛け合い漫才のような会話をしても学生たちは
気が気でない。特に尾道駅で下りの汽車に乗る者
は乗り換え時間が短くて、間に合わないことが度
々あった。どうにか坂を登り切った処に三美園駅
がある。この駅も当初には無かったが、坂の東側
の高台に福祉施設が出来てから駅が設置されたと
聞いていた。私たちの世代は戦後のNHKラジオ
放送連続ドラマで菊田一夫原作「鐘の鳴る丘」を
聞いて育ったので、この駅を通るとそれを連想し
ていた。               つづく



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