山陽日日新聞社ロゴ 2011年2月18日(金)
尾道鉄道各駅停車回想記・・・1
 本日も延着
 『御調文学』より 虹野 かな太
 『御調文学』代表編集委員の堀川弘さん(74)
によるオノテツ回想記を、堀川さんの快い了承を
得て、『御調文学』No.44号より転載し、シリー
ズで紹介します。

 尾道鉄道終焉の日から四十五年を経過した現在、
僅かながらも墓標のごとく残存するトンネル施設
などを見ることが出来ても、多くの人々の脳裏か
らは忘れ去られている。
 しかし、私にはその勇姿とも言い難い素朴で平
凡な電車と、沿線に広がる風景や乗客が織りなす
日常の光景が忘れられない。
 日本が近代化の象徴として国有鉄道網を拡張す
る中で、大都市の私鉄と共に地方でも有志の尽力
によって鉄道の布設が盛んになった大正時代の末
に尾道鉄道も開通した。建設の経緯や会社沿革、
当時の路線状況などは、かつての中国新聞取材記
事や尾鉄職員OBの図録、記録に譲ることにして、
私は自身が通学の手段とした昭和二十七年四月か
ら昭和三十年三月までの、乗車した少年の目から
見たり感じたりした体験の断片を綴ることにする。
 私が河内小学校一年生の春遠足は、学校から歩
いて尾道鉄道市駅の見学をすることだった。同級
生の一部には、その時に初めて電車を見た人もあ
るくらいで、子供にとっては尾道鉄道が特別な存
在であった。
 昭和二十七年四月、三原市の工業高校で電気の
勉強をすることになって、自宅から徒歩八分の市
駅に行き、電車に乗って五十五分位で国鉄山陽本
線尾道駅に到着、さらに蒸気機関車が牽引する列
車に乗って約三十分で国鉄三原駅到着、ここから
歩いて二十分で学校に着く事になる。日曜日以外
は毎日朝六時二十分頃に家を出て、学校へは八時
二十分に到着する二時間の通学時間を要した。
 通学時間の約半分を尾道鉄道で費やしていたの
で、半世紀あまり前の事になるが記憶に残った停
車駅周辺の景色や同乗者との印象深い出会いなど
を思い出してみたい。
 朝五時五十分に起床して洗顔朝食を済ませると、
教科書以外に実習用のペンチやドライバーなどが
入った工具袋に製図器セット、T型定規とまるで
弁慶の七つ道具のような紬を肩にかけて、急ぎ足
で市駅に向かう。我が家から市駅に行くには、家
の裏の御調川に架かる橋から前の県道(現国道四
八六号線)につながる農道を進み、雲雀山の山裾
沿いに坂道を登って妙見神社下を通り、尾道鉄道
の線路を横断して現在の中国バス御調営業所の前
に有った市駅に着く。
 市駅の正面は東側に向かっており、両側に商家
が数軒並ぶ道を少し下ると尾道から甲山や三次に
向かうバス道に出る。定かではないが二番電車と
記憶する六時三十分頃の電車に乗る。乗客は尾道、
向島の工場や国鉄糸崎駅周辺に密集する工場など
へ仕事に行く人、尾道、福山に商用で行く人など
十人余りの大人に交じり、三原、福山の学校に通
学する生徒が数人乗車して発車。電車は現在広島
市内を走る市街地走行型電車でもほとんどお目に
かからない旧式な車両が、通常は一両で運行され
ていた。
 現在のJR電車や大都市の私鉄電車のように、
高電圧で十分な電力を供給されたものと異なり、
市内電車並の電圧で美ノ郷村三成の火力発電所か
ら供給される電力は、時に電力不足を生じて不安
定な走行を余儀なくされる事があった。始発駅か
ら急な坂道を喘ぎながら登る電車は、やがて桜並
木が続く諸原駅に到着する。
 諸原駅は尾道市の北部から御調町を遮る木頃山
脈の中間にある。その昔、仙人が住んでいたと言
う伝説を聞くが、谷間が奥深く続いた趣のある風
景だ。この駅は現在も語り草になっている珍しい
鉄道施設があった。旧国鉄でも上越線の清水トン
ネル前後の山越えにループ線と言う特殊な線路が
有るが、この尾道鉄道の諸原駅でも、「スイッチ
バック」と呼ばれる電車の進む方向を逆にして折
り返して運転する登板用線路があった。
 運転手と車掌が車両の前後で入れ替わり、当時
の受電用パンタグラフが現在の菱形アーム式では
無くて、細長いお好み焼きのヘラ状の枠に受電用
カーボンが取り付けられたタイプなので、車掌が
紐を操作して前後を回転していた。さらに坂を登
る電車は、花見時には名所に出かけなくとも車中
から花見が出来る桜のトンネルを抜けて山頂の畑
駅を目指す。
 畑駅では数名の通勤客と学生が乗車する。尾道
鉄道の最高到達点である畑駅の周辺は三方を山に
囲まれて、尾道方面の谷間が僅かに開けている。
少年の目には山並みの彼方に何か求めるものが有
る気分にさせる峠でした。      つづく



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