2010年10月21日(木)
国宝「普賢延命像」
尾道市内4国宝のうち唯一の美術品
 持光寺30年振りに一般公開
  10月30日〜11月3日
  「尾道七佛めぐり」10周年記念で  
 文学の町、絵の町、映画の町であり坂の町であ
ると同時に、古来より「寺の町」であった尾道。
その寺の町である尾道で10年前に始まった「尾道
七佛めぐり」が今秋、節目の10回目を迎えるのを
記念して、「あの日の公開から30年..特別大公開」
と銘打って、尾道市西土堂町の持光寺(松岡昭禮
住職)で、市内唯一の美術品の国宝である「普賢
延命菩薩像」が「尾道七佛めぐり」期間中の10月
30日(土)から11月3日(祝)までの5日間、一
般公開される。。松岡住職は「次の公開がいつに
なるかは分からないので、この機会に是非一度足
を運んでほしい」と話している(「尾道七佛めぐ
り」については続報する」。
 かって昭和40年代に、当時の石原善三郎市長は
「(市庁舎などから)尾道三山を一望して、国宝
の塔が三つ(浄土寺、西國寺、天寧寺の塔を指す)
見えるのは全国でも尾道だけ(奈良でもないの意)」
と自慢していたが、今日では東久保町、浄土寺が
「国宝の寺」と呼ぼれるようになったものの、正
確には『尾道市には国宝に指定されたものは4件』
しかない。
 浄土寺の多宝塔、同じく本堂に瀬戸田町向上寺
の三重塔の3件はいずれも建築物。そして、市内
唯一の建造物ではない国宝が持光寺の「(絹本著
色普賢延命像)であることが余り知られていない。
 そこで「尾道七佛めぐり」の紹介に入る前に
「国宝の普賢延命像」について学んでみたい。
 市文化振興課の調べ、協力によると山陽日日新
聞社が昭和43年11月に読者に無料配布した
「心のふるさとシリーズ第一集・郷土の寺」の中
で、昭和43年当時の持光寺(第42代松岡真雄
住職)について、こう記述している。
 「日輪山、金剛台院持光寺は永徳2年(1382)
僧頓了により天台宗から浄土宗に改宗しているこ
とから、開基はそれより古く、本尊は高さ1.1
メートルの五劫思惟の阿弥陀像ながら天台宗とみ
られる本格的密教画の普賢延命菩薩画像が秘蔵さ
れ、最近修理に際し藤原時代の作とわかり注目を
集めている。幅85.4センチ、長さ146.8センチの
延命像は濠々と煙がたちこめ幽玄な情景を想起さ
せる」と。
 当然のことながら、昭和43年の時点では国宝
の指定を受けていないことが分かる。
 当時、尾道には小林和作、小野鐵之助の両雄が
健在で、市内には″このように国宝級の逸品が
(指定もされず)ゴロゴロしていた時代″にあっ
て、賭事好きな両氏は自らの見識と眼力を競う形
で「百万円単位の賭けに興じていた」というエピ
ソートが伝え残されているほど。
 今を遡ること35年前の昭和50年(1975)11
月9日、恒例となった第7回の「秋の文化財公開」
が催されている。
 「大宝山(千光寺山)の文学と文化財を訪ねて」
というテーマとコース設定。郷土美術館(市立美
術館の前身で前のNHK尾道放送局舎を保存活用)
で開催中の「日本のおもちゃ展」を観て、「文学
のこみち」と「石造美術」を楽しみながら坂道を
下り、天寧寺の三重塔の内部を公開。持光寺では
今春、国宝の指定を受けた「普賢延命菩薩画像」
を特別公開していただく−と案内文が謳っており、
正確にはこれが初めての一般公開となる。
 なお、市役所には「同催しの解説を担当した諸
氏に配布した″内部文書″が残っており、それぞ
れ担当部署、場所と時間を記して次の懐かしい諸
先輩の名前がある。
 胡本清光(郷土美術館)▽檀上竹男(郷土美術
館と天寧寺)▽樫本清人(文学のこみち、石造美
術)▽多田隆信(千光寺)▽御藤良仁(光明寺)
▽財間八郎、小野鐵之助(持光寺)。
 持光寺のところに、財間先生と小野先生の名前
があり、前述のエピソードを裏付ける一例ともい
える。
 これより5か月前の昭和50年6月12日に
「絹本著色普賢延命像」は晴れて国宝の指定を受
けている。その解説文は次の通り。

国宝絹本署色普賢延命像
絹本縦149センチ
  横86・5センチ
 普賢延命菩薩は、密教に於て「寿命増益法」の
本尊とされ、「除草延命」を祈り、「治病安産」
等の御利益を司どる仏とされている。普賢延命像
には二臂像と二十臂像の二様あるが本品は二十臂
延命像としては最古の作品である。いかにも密教
像らしい正面向きの堂々たる尊像で、描写の上で
も、長年にわたる供養の護摩のために、使用して
いる銀箔、群青、緑青などの絵具が変色している
が、はじめの頃の尊顔や二十臂をかたどっている
撓みない朱線、条帛に賦された強い暈どり、切金
を用いない大ぶりな彩色文様に加えて、白象の頭
頂に描かれた四天王像に見られる力強い動勢表現
など、平安時代の画風とは趣きを異にし、その特
色は新時代、即ち鎌倉化を指向しているところに
ある。本品は、その修理中、画面下端の絹裏に仁
平三年(1153)の紀年銘が発見されたが、そのこ
とは、本品が当代の基準作として、時代様式の変
遷を知る上で、我が国絵画史上貴重な作品である。
尚、本品については、鳥羽法皇が最愛の近衛天皇
の健康と延命を、普賢延命菩薩に祈念するために、
仁平三年に天下著名の仏寺に、この画像を下賜さ
れたものと伝えている。まことに保元の大乱前夜
のあわただしい風雲を物語るものといえよう。
 画絹裏に「延命像仁平三年四月廿一日供養」の
墨書がある。

珍しい「墨書名のある画像」
 時代背景を懐かしい財間節で
 先に紹介した「解説文」は、昭和56年3月20日
から5月10日まで、尾道市立美術館が開設一周年
事業として開催した「尾道仏教美術展」の図録に
掲載されていたもの(普賢延命像の写真も同じ)。
 これらの経過から分かることは「あの日の公開
から30年..」のあの日とは、正しくは市立美術館
における尾道仏教美術展で公開して以来というこ
とである。
 最後に、故財間八郎先生が1999年10月21日に発
行された「夕映え」(非売品)の中から「持光寺」
の「普賢延命像」に関する部分の記述について原
文のまま掲載する。

 おのみち・古寺巡礼
 [持光寺](前略)「このお寺には「延命像仁平
三年(一一五三)四月廿一日供養」という墨書銘
のある「絹本著色普賢延命像」(国宝)がある。
この画像は昭和五十年六月、新たに国宝に指定さ
れた優品だが、これは早くから国の重文に指定さ
れていて、京都で大修理を施しているとき、両面
の下部に「仁平三年四月廿一日供養」という墨書
銘が発見され、この画像が昭和五十年から八二二
年前のものであることが事実になり、こうした墨
書銘のある画像は我が国でも珍しいので国宝に昇
格したものである。
 ところで、この国宝の画像についての持光寺の
寺伝は、このお寺が天台宗のお寺として誕生した
平安時代の中期、京都を中心とした世相は騒然と
して、天地をどよもす大嵐の襲来を思わせる不気
味さがただよっていた。即ち保元の大乱の前夜で
あった。
 鳥羽法皇は最愛の皇子近衛天皇が生来多病であ
ったので、その健康と延命を祈願するため、仁平
三年に天下著名の寺院に普賢延命菩薩の画像を下
されて聖上延命の祈祷を命ぜられたが、こうした
丹精の甲斐もなく、天皇は久壽二年(一一五五)
におなくなりになり、これを機として今まで一天
をおおうていた黒雲は遂に裂けて大暴風雨となり、
いわゆる保元の大乱を生じたのである。この「延
命菩薩画像」はこうした因縁を持つ画像だと伝え
ている(後略)。」。

『普賢延命』とはなんぞや
 他の作品「年代決定の基準に」
 なお、広島県のホームページで公開されている
「広島県の文化財」の記述が、普賢延命像の「価
値」について分かりやすく紹介している。
広島県の当該ページ

 尾道市の文化振興課では「これまで全国の仏教
美術展へ出品され公開されることはあったが、尾
道での公開は30年ぶりのことであり、今後、尾道
での公開は未定とのことである」と説明している。



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