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2010年9月15日(水) 谷啓さん逝く 大林宣彦監督「誠実な姿忘れられない」 我見失わず常に冷静に クレージーキャッツの時代背景 |
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また一人、尾道ゆかりの俳優が旅立った−。 1950〜60年代に「クレージーキャッツ」のメンバ ーとして活躍した谷啓さん。大林宣彦監督が総監 督し、尾道三部作の番外編と称される『マヌケ先 生』の撮影で、98年に尾道に滞在した。監督がこ れまで手掛けた多くの映画には、ハナ肇さんや桜 井センリさん、安田伸さん、植木等さん、犬塚弘 さんらクレージーキャッツのメンバーが出演し、 その姿は永遠に作品に刻まれている。クレージー キャッツのその時代と背景から、メンバーとの思 い出を監督に語って戴いた。写真はいずれも本紙 撮影。 [幾野伝] 僕が十八歳で上京した時は日本の、黄金の六〇 年代の前夜で街にようやく、マイカーの姿が現れ 始めた頃でしたね。 電車や地下鉄に乗って浅草や銀座へ遊びに行く のはちょっとした非日常の冒険でした。浅草から 船で銀座に出るのは、正に贅沢な大都会の遊びで、 夜の銀座にACB(アシペ)のネオンが...。 中はむせかえるような熱気、ジャズと喧騒の合 間にひょいっと笑いのホッとした一間が。クレー ジーキャッツなるコミックバンドの登場だ。垢抜 けて、正に都会の大人の遊び。憧れたよねえ、尾 道からニューヨークに憧れていたエンタテインメ ント志向の少年は。 やがてクレイジーの兄さん達は、日本のエンタ テインメントの殿堂「日劇」に珍なる新人として 進出。日本は高度経済成長期を迎え、クレージー キャッツはそれを象徴する「日本無責任時代」な る映画で時代のスターとなる。そしてテレビの時 代のまん真ん中で大人の漫画を演じ続ける。あの 日本の狂乱の時代の、ジャーナリズム自身をこの 兄さん達は生き抜いたんだね。そしてそれは、僕 自身の青春期とぴったりシンクロする。やがてそ ういう時代がゆっくり終わっていく頃、僕は自然 の流れのようにこの兄さん達を僕の映画の中に取 り込み、出逢っていきました...。 クレージーキャッツはただのおふざけバンドで はない。演奏家として一流であり、喜劇映画の命 たる危険なスタントも全部自分でこなし、さらに その笑いは知的であり、こういう人は当然役者と しても、一流であります。僕は特に、クレージー キャッツだからという意識はなく、一人づつと出 逢っていったなあ...。 『ねらわれた学園』で、薬師丸ひろ子の父親役 にハナ肇さん。ジュリーとトロイ・ドナヒューが 共演する『広島原爆物語恋人よ我に帰れ』での通 訳役に桜井センリさん。 安田伸さんとは音楽家として終生の友となり、 コンサートで伸さんのサックスと僕のピアノでコ ラボレーションをやったり、当然映画もいろいろ、 殊に『青春デンデケデケデケ』での名演技は忘れ がたいです。尾道映画『あした』のテーマ曲はぼ くの作曲で、伸さんがサックスを演奏。入院中の 病院を抜け出して、僕の手書きのスコアに目を凝 らしながらの、壮絶にして限りなく静やかなる名 演奏でした。これが伸さんの遺演となりました。 危うさ、いかがわしさを笑いで戒め 植木等さんとも尾道映画の『あした』でした。 スポニチ映画賞の主演男優賞まで受賞した名演技 と、真冬の海辺の撮影でいつも全出演者をリード し、率先して現場に待機。その姿は「(入院中の) 安田の思いを俺は伝えるぞ」というものでした。 僕の駄洒落を最も良く理解してくれる仲間であり、 友情に溢れ、思えばこれこそがクレージーキャッ ツのメムバー全体の、人柄でありましたね。 犬塚弘さんとは伸さんの葬儀で出逢い、『転校 生さよならあなた』で斎藤一美役の蓮佛美沙子君 のおじいちゃん役を。徹夜続きの撮影現場に詰め て、植木さんの病状を心配してらした。 さて、谷啓さんは息子さんが、我が娘の千茱萸 さんと同級生というご縁もあって、千茱萸さんが プロデュースした『マヌケ先生』が最初。僕の尾 道映画、少年時代の自伝的作品で、マヌケ先生と は僕の最初の自作映画の作中人物。それを演じて 戴いたのだからこれはただ事じゃない。 しかも劇中で、僕が作詞作曲した主題歌「マヌ ケ行進曲」まで歌って下さった! あの録音の夜 の、誠実な姿が忘れられません。呼び名の縁は、 ハリウッドの喜劇人で、国連のユニセフ親善大使 でもあったダニー・ケイを目指して名付けられた。 ダニーは『虹を掴む男』など傑作喜劇があり、 『アンデルセン物語』や『工ディ・フォイ物語』 『5つの銅貨』など、歌って踊れる人。喜劇と言 えば時流に合わせて、下卑たることにもなり勝ち ですが、この人は常に古典的とも言える上品に演 技をつとめ、僕らの時代のヒーローでした。その ダニー・ケイを目指したことに、谷さんの自恃が 伺えますね。 クレージーの兄さん方は、その音楽家としての 卓越したリズム感が演技のテムポと間合いを、そ してメロディーヘの憧憬が演技の情感を醸造し、 ハーモニィーヘの節度が良き友情を育てたのだと 思います。 谷さんとは二〇〇七年に、「おいてもやんぐ」 という映画を企画しましたが、クランクイン寸前 にロケ地の熊本の豪雨で中止したのが今となれば 残念です。 人の世では思いは常に募るが、今はもう安らか な時を楽しんで下さい。日本の狂乱の時代の中を、 我を見失わず常に冷静に、そして一所懸命誠実に、 我がつとめを果たし、時代の持つ危うさ、いかが わしさを笑いによって批評し、戒め、醒めたジャ ーナリストの目で見据えながら生き続け、大切な ことを発信し続けたクレージーの兄さん達。有難 う、お疲れ様でした。あなた方のおかげで、僕ら は心の平衡を、平常心を、失わないで済んだので す。 クレージーキャッツは日本の、黄金の六〇年代、 高度経済成長期の象徴であり、病みつつある僕ら の心にとってのまことの良薬であったと思うので すね。 (十三日に取材) |