2009年9月27日(日)
尾道学発掘レポート
 其阿弥(ごあみ)異聞
  尾道学研究会 林 良司
見学する一行
 中世以来の刀鍛冶として、尾道の歴史及び刀剣
史に燦然とその名を刻む其阿弥(ごあみ)の末裔
(本家当主)・其阿弥覚(さとる、廿日市市在)
さんから、尾道来訪の連絡を受けるのとほぼ時を
同じくして、其阿弥姓発祥の寺と位置づけられる
西久保町・時宗常称寺の川崎誠住職より、古い過
去帳の内から、其阿弥家に関する一文が出て来た
のですが、どうも今まで言われてきた由来とは些
か違う様で..との報せを得た。この時点では、川
崎さんは其阿弥さん来訪はまだ知らず、両者は全
くの偶然の一致であった。
 過去帳は、昨夏の「祇園さんと時宗常称寺」調
査の折、その他の古文書と共に確認されていたが、
時代は江戸時代と古いものながら、通常の古文書
類とは異なるものである為、半田堅二さんによる
解読調査の対象からは外れていた。
 其阿弥の一文は、物故者名簿の欄とは別頁にあ
り、寺への寄進・施主等の記録と並び、以下の様
に短く書き記されている。
 其阿弥ハ出生参河ノ産ニ〆俗名三良ト云真教上
人御弟子トナリ其阿弥号給夫より諸国御供ス正和
四卯年当所へ居住ス     ※半田堅二氏訳
 尾道における其阿弥の由来を簡略に記録してい
るわけだが、川崎さんの指摘通り、これまでの其
阿弥譚で語られてきた内容と異なる事に、大いに
目を惹く。
 出所は参河(三河、愛知県東部)で、俗名を
「三良」(みら?)といい、遊行二世・他阿真教
(たあしんきょう)上人の弟子となって其阿弥の
号を賜った。そうして上人に随行して諸国を遍歴
し、正和4年(1315)に尾道へ居住したとある。
 これまでの通説では、其阿弥の元祖は備後の三
原正家を発祥とし(三原の地かどうかという点も
諸説の異論が出されている)、三原から尾道、木
梨、鞆方面へ分派し、その内の一派が尾道へ落ち
着き、初代正家が尾道へ至った真教上人にお札切
りの小刀を献上し、その返礼として其阿弥の号を
賜った..というものであった。
 真教上人より阿弥号を賜る部分を除いて、根底
から由来が異なっているのである。
 新説・異説ながら、当時(江戸期)の常称寺住
職の手によって書き留められた、お寺の正規の文
書であるだけに、言い伝えなどと違ってその信憑
性・信用性は高いと見てよい。本会の天野安治会
長も、記録された時代が古いものだけに、信憑性
はあるのではないかとしている。加えて、これま
で語られる事のなかった俗名(本姓)が出て来て
いるのにも注目される(初見)。
 また、同じ様に真教上人に伴って尾道へ至り、
そのまま当地へ居住し、町医者を代々営んだ松田
ト隠(ぼくいん)の例もあり、そうした事例の一
つに其阿弥もあったとしても不思議ではない。
 して、真相の方は如何に?であるが、所詮は推
論を巡らすばかりなので、ここでどちらがどうだ
と結論付ける事はしない。通説をひっくり返す新
説の登場などというのは、考古学や歴史学の世界
ではままある話だが、よもや身近な其阿弥の話で
噴出するとは夢にも思わなかっただけに、今はた
だただ驚いているばかりである。

◆其阿弥さん博物館へ..
 大阪府堺市の宮地義治さん(運送会社会長)か
ら尾道市へ寄贈され、現在、おのみち歴史博物館
で「新収蔵品展」として展示中の其阿弥作の刀剣
を、其阿弥さん夫妻が見学に訪れた(写真=右端・
其阿弥さん、中央・宮地さん)。会場では寄贈者
である宮地さんも其阿弥さんを出迎え、また、常
称寺文書を解読中の半田堅二さんも駆けつけ、名
刀の数々を愛でながら、其阿弥談義・刀剣談義に、
しばし時を忘れていた。



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