2009年5月30日(土)
平谷市長の挨拶から
 昔の尾道の人は偉かった
  「JR高架下のガード」に学ぶ
年代の差が分かる高架線下
 ◎..古くからの″尾道学同憂の士″や永年の本
紙愛読者はすでにご承知の通りだが、平谷市長が
二十七日の観光協会の総会の席上、JRの高架下
の「歴史」に言及した。本紙等では、もう随分と
前から何度も写真入りで報じてきたことだが、為
政者としてこの価値に言及したのは平谷市長が初
めてであり、その意味では″画期的″ともいえる。
 ◎..明治二十年代の山陽鉄道の建設時に「単線」
であり、後に現在の「複線化」された跡が、その
まま千光寺山ロープウェイ入口と「風呂ノ小路」
のガード下に『原形』をとどめていることを指す。
 ◎..他にも、一見してすぐ判るのが久保八幡神
社や常称寺が鉄道建設によって社寺地域が寸断さ
れたという事実。当時、山陽鉄道の建設に『地元
的に関わった先人の苦労の大きさ』を知ることこ
そ、この歴史遺産から学ぶ最大の教訓でなければ
ならないと付言しておく。
 ◎..そして、この山陽鉄道の敷設が後に市街他
「新国道」建設の布石になったことは確かであろ
うが、その時は既に『戦時非常時』(強権の発動)
であり、この流れが「旧築出町復元マップ」や住
友銀行(会議所や警察署も)周辺の強制取り壊し
につながっていった歴史まで、検証しておく必要
性を、今日的事象との関わりで指摘しておきたい。
 ◎..山陽新幹線が福山や三原のように在来線に
併設されるのではなく、現在のような路線を選択
した−一つの事実をもってしても当時の先人の苦
労はいかばかりか(正に公のために命を捨てる覚
悟)が偲ばれるのではなかろうか?。『昔の尾道
の人は偉かった』ということ。

転載責任者メモ:以前、入船裕二氏の著書で、現在の山陽本線の町なかへの敷設に
        あたっては賛成反対、町を2分する大論争がありましたが、新幹
        線建設にあたっては、経済効果を狙って町への誘致に熱心な人が
        多くなっていたと知りました。

        今の風景を面白いと感じる私ですが、もし今鉄道が無くて「これ
        から建設」と言われたら、今のルートではなく、山の北側を通す
        ように言うかもしれません。今のルートになったのは、山の中を
        通すとトンネルを掘らないといけないのと、当時は海運が盛んで
        港と鉄道を結ぶ必要があったからということもあったでしょう。
        実際当時は尾道駅から海の方に貨物線が延びていて、今でも微か
        ですがルートのあとが残っています(尾道第一ホテルの近く)。

        新幹線はカーブして海側を迂回すると速度を落とさなければならず、
        設計上、山の中を突き抜けていくのが"やむを得ないこと"だった
        ようですが、今となっては景観上、町なかを突っ切らなくて良か
        ったと思えます。町の中をという声もあった中で、北側に通すこと
        になったときの為政者は、きっと批判もされたのでしょうが。

        確かに以前は鉄道が来れば、道が太くなれば産業も観光客も来る
        という発想が日本中にありました。東京日本橋の上に首都高速を
        通してしまったのと同じ時期の話。今の価値観で見れば景観を
        無視した軽率な部分があったようにも見えますが、そういう時代
        でした。
        「国が推し進めた」と、自分たちには責任がないように表現する
        人(マスコミ等)もいますが、当時はマスコミも反対するどころか、
        次々に出来る高速道路を喜んで報道していたような気が。


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