2009年1月18日(日)
尾道をゆく53
 若君の神馬
  尾道学研究会 林 良司
神馬の像
 尾道鉄道の、また今日ではバスの停留所名とし
ても馴染み深い宮前橋を渡って、烏須井(うすい)
八幡神社神域の杜へと入る。
 神鎮まるに相応しい清浄なる空間―。烏須井の
杜を訪れる度に感じ入る言葉である。きれいに掃
き清められた、緑包み込む清々しい神域に身を置
くと、神(落ち葉一つに至るまでに宿るであろう
自然の精霊ともいえる)を身近に感じ、それらか
ら発せられる気、或いはエネルギーによって、く
たぴれた心身も癒されるから不思議だ。
 心地よい烏須井の宮に建つ随身門、外に面した
南側には、当然として左右に随身像が座している
が、その北側内部を覗き込むと、左右に一対の神
馬(じんめ、しんめ、かみこま)が納まっている。
 神馬とは、神の乗物として奉納された馬を意味
し、古くは生身の馬であったが、後に至ってここ
に見る如く模造の馬(木馬)が主流となり、各地
の神社でそれを見る事が出来る。周辺では鞆の祇
園さん・沼名前(ぬなくま)神社、お弓で知られ
る百島八幡神社などにある。
 それらは通常一体であり、随身の如く一対とい
うのは見かけない。それによく注意して見ると、
その造りが全く違う事に気づかされる。正面外か
ら向かって右手(東側)の神馬は、左手の神馬と
比べものにならぬ、かなりの精巧な出来である。
 案内頂いた宮本基(もとい)宮司が扉の鍵を開
けて下さり、より間近に神馬を拝見すると、思わ
ず1歩引き下がる程のリアルさ、手を触れると背
にする御幣を揺らしてヒヒーンと唸り出しそうで
ある。
 生けるが如しの神馬の傍らに、「木造馬型に就
て」と題した由来文が見え、それによると「此木
馬は旧三原浅野家の所蔵品当時若君の調馬に使用
さられものなり」とある。三原城に拠った浅野
(広島藩の支藩)の若君が乗馬演習に用いた木馬
とな、ほほぅ..と感心せしめる由緒である(何代
目の誰か等は不明)。
 材質は四肢は欅(けやき)、その他は楠で出来
ているとし、「全身中、顔面皮下静脉の怒張腋下
両胸側間の皺、歯牙、舌等ハ悉く彫刻精緻まして
其美妙さは稀に見る所なり」と、シワや歯、舌に
至るまで精緻と由緒が絶賛しているが、まさにそ
の通りの名馬であり、かつまた標本的な価値もそ
こにある。
 若君の木馬は歴史の流れの中で流転し、烏須井
宮のさる氏子の元へ流れ落ち着いた。昭和3年11
月、それが神前に奉納され、ここに神馬として随
身門に納まったという次第である(こうして一対
の形式が出来上がった)。
 なお、胴体部に掛かる″下がり藤の紋″は浅野
家とは無縁で、神社の紋(桐紋)とも異なる事か
ら、或いは旧蔵した氏子の家紋であったのかもし
れない。
 随身門を抜けて、境内に点在する石工の名品も、
隠れた烏須井の見所である。
 随身門と並び左右に配された石灯龍、台座部分
の石組みが美しくまた素晴らしい。石の専門家も
その匠の美と技を賞賛したという。
 社務所傍にある石灯寵はそれにも増して注目に
値される。圧巻なるかなそのスケールもさる事な
がら、単なる灯範という概念を超えて、一つの芸
術作品として鑑賞され得るものがある。
 大灯寵は氏子範囲に属す御所浜(土堂)の漁師
さんらによって建立されたもので、時代は文政3
年(1820)正月の時を刻む。宮本宮司のお話
によれば、元々は御所浜にあって、それを後に境
内へ移設したのだという。
 「鞆の浦に見るのと同じ様な、常夜燈のある港
の風景が、尾道でも見られたんですねぇ..」。
 そう語る宮本宮司と灯龍を見上げながら、あり
し日の風景にしぱし想いを馳せた。
 とかく旧市街に点在する石造物ぱかしに目が行
きがちながら、その外にも、石工の良い仕事の跡
をこうして見る事が出来るのだ。
 終いに今一つ、本殿を囲む玉垣の内、「栗原村
氏子」に対して「尾道市氏子」の並びに、かの
「山口玄洞」の名前がある。尾道学メンバーから
の情報により最近知り得たもので、玄洞翁信者の
くせに今まで知る由もなかったものである。
 神域の清々しさに加えて、玄洞さんの名(足跡)
に接する事によって、疲れた心身がまた幾分か軽
くなった様だ。

場所はこちらの「う」



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