![]() |
2008年3月8日(土) 企画展【造船のまち尾道】記念講演会予告編 黒船に乗った三八君 尾道学研究会 林 良司 |
|
時は幕末。泰平の眠りを覚ます蒸気船と謳われ た黒船の船内に、何と日本人乗組員が居た。サム・ パッチー。それが彼の通り名だった。浦賀奉行所 の記録には「倉蔵」という名で、出生地は「芸州瀬 戸田」と記される。 生口島の西部に位置する福田地区、そこにある 興福寺に残された古い過去帳の中に、以下の様な 記述がある。嘉永6年(1853)、黒船来航の年の 記録である。 ..十二月五日大風。当所ノ熊蔵子倉次郎、死候 由申、法名付候処、其後アメリカ舟へ乗来、又ア メリカヘ反ル、実に不死、アメリカ人卜成也... 当地に住む熊蔵の子・倉次郎は、海難に遭って 亡くなったものとして戒名まで付けて弔っていた が、その後、アメリカ船(黒船)に乗って再び帰っ て来た。そして又黒船でアメリカヘ帰っていった。 倉次郎は死んではいなかった。彼はアメリカ人と なってしまった..とある。この倉次郎こそがサム・ パッチの素性であった。島民はしこたま驚いたに 違いない。熊蔵さんとこの倅が生きていた。しか も日本を震憾させたあの黒船に乗って舞い戻って 来たというのだから、思わず腰を抜かす人もおっ たであろう。 時代は3年前に遡る。嘉永3年(1850)、倉次 郎は水主(かこ)として永(栄)力丸という船に 乗っていた。船は紀州沖で嵐に見舞われ、50日ほ ど漂流する。そこヘアメリカの商船が通りかかり、 奇跡的に救助された。そうして倉次郎ほか永力丸 の船員一行は、サンフランシスコヘ渡る。その後 中国へ移送され、他の仲間(因島や岩城島の者も 居た)は幕府の処罰を恐れて船を下り中国へ留ま る中、一人倉次郎は船乗りとしての職務を全うし たいと、水兵としてサスクェハンナ号に乗った。 この船が後にペリー艦隊の一隻となるわけである。 彼がサム・パッチと呼ぱれるのは、この時の船 員としての通称・仙八から来ているとされる。そ の他にも、仙太郎、倉助などの名もあった様だ。 幕府に名乗った倉蔵も、多くの通称の内の1つな のであろう。 あの黒船来航に日本人が乗船し、しかもそれが 地元瀬戸田の人物であったというのだから、まさ に麻生イトに続く郷土の埋もれた人物伝発掘とい える。 その発掘(発見)と調査研究をされたのが、岡山 商科大・弓削商船高専の村上貢名誉教授(海事史 研究者)で、その発見は昭和57年6月27日付けの 中国新聞紙上にも大きく採り上げられている。 黒船に乗った日本人、サム・パッチはその後い かなる生涯を辿ったのであろうか?。この続きは 3月15日(土)18時から、尾道商議所記念館2階 議場(本通り中商店街)において開かれる、【造 船のまち尾道】企画展記念講演会・尾道学研究会 第14回例会『黒船に乗った日本人〜サム・パッチ の数奇な生涯』での、村上先生の講演で...。 ※定員50名先着順となりますのでお早めにご来 場下さい。尾道学研究会の会員は無償、会員外は 資料代500円で、当日入会も受付ております (年会費2千円で、会員には各種案内及び会誌 『尾道学通信』の配布、資料代が全て無償、会員 限定の会への招待などの特典)。問い合わせ先= 研究会企画事務局..080-5612-9108。 |