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2007年2月18日(日) 半田堅二さん 幕末の豪商、栗田家年誌を解読 飢饉で尾道の様子を描写 「大塩平八郎の乱」の情報を入手 |
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難解といわれる古文書を紐解き尾道地方の埋も れた歴史を蘇らせている尾道郵便局集配営業課、 半田堅二さんが幕末の豪商、栗田屋(金屋)「年 誌」を1冊の本にまとめた。幕末、尾道豪商の情 報収集能力に舌を巻く資料を発掘した。 橋本家、亀山家と並ぶ江戸時代末期の豪商で町 年寄りでもあった栗田家の天保7年(1837年)9 月から天保9年3月まで天下国家の情報や地元尾 道の話を盛り込んだ市立中央図書館所蔵の「年誌」 を現代文に訳した。 天保7年は大飢饉で10万石の福山藩で3分の1 の3万2300石、31万石の岡山藩では半分以下の14 万石しか米が収穫できなかった。栗田家はこうし た全国各地飢饉状況の情報を幕府から入手してい た。 尾道では米が足りないので酒の製造を3分の1 に減らすよう町年寄りが通達、減酒造を守ってい るかどうか調査している。富める者は貧しい者を 救済、長江の艮神社では粥の施しがあり、1日あ たり白米、1石を投じていた。1石は万人が年間 食する米の量で約140kg。粥は米1升に水7升の割 合で水をすするような粥だった。 飢饉騒動は尾道でも起こり、尾崎の住人130 人が徒党を組み千光寺山に登り、火を焚き、ほら がいを吹き夜通し騒いだが町役人が出動して捕ら え鎮圧した。飢饉で疫病が流行し死者も出て行き 場のない下賤の者を浄土寺、常称寺で弔うと通達 している。 この年に起きたのが大阪で大塩平八郎の乱、越 前柏崎での生田万の乱で栗田年誌では大塩平八郎 の乱について尾道にも波及するのではないかと心 配し詳細な情報を入手している。 大塩平八郎が大阪で蜂起したのは2月19日、百 姓600人程を引き連れ、船場や道頓堀、堺筋ま で火を放ち大阪中の5分の1を焼き尽くし鴻池三 井をはじめ金持ちから略奪した。大塩の乱鎮圧の ため遠くは播州姫路、紀州和歌山などから総勢 8000人近くの兵が投入され、大塩は3日後に自殺 した。 栗田家の情報収集に舌を巻くのは蜂起した大塩 平八郎の決起文まで手に入れていたことで、決起 文には大塩が死を覚悟していたことが書かれ、役 人に知られていても中止しない、騒動が起きたら すぐに駆け付けてこい、遅かったら金や米、家財 道具や財産と天下の宝物が灰になると飢餓に苦し む群集をあおっている。 半田さんは「栗田家年誌は幕末の飢饉の当時の 尾道の様子が良く分かる。甲山にも飢饉当時の古 文書が残っているが甲山では普段食べない籾殻や 木の根っこを食べるよう事細やかに通達している が、それに比べ尾道は対策がゆるい、それだけ裕 福だったのかも知れない」と栗田年誌を解読した 感想を述べていた。 |