![]() |
2007年1月7日(日) 瀬戸田町 9200人の街に寺院が16カ寺 尾道に劣らず「寺の町」 中世、瀬戸内海屈指の回船基地 |
|
![]() |
||
西日光と称せられる耕三寺をはじめ瀬戸田町は 尾道に劣らず「寺の町」である。中世、瀬戸内海 屈指の回船基地で、その経済的繁栄に支えられ数 多くの寺院が建立された。安芸門徒ほどの厳格さ はないが寺院は島の人々の精神的支柱として脈々 と受け継がれている。 人口9200人の瀬戸田町にお寺は16力寺ある。隣 の因島は2万7000人で18力寺、向島町は1万6000 人で5力寺、尾道は9万2000人で59力寺、御調町 は8000人で9力寺。瀬戸田町は人口520人に1 力寺あり、向島町の3200人に比べ寺院の密集度は 6倍を超える。ちなみに尾道は1500人に1力寺で 瀬戸田町は抜きん出ている。尾道の旧市街地に寺 が密集しているように瀬戸田町は港の近くの瀬戸 田地区に国宝の三重塔=写真=のある向上寺など 5力寺が固まり、福田と御寺に2力寺ずつあり、 あとは1村1力寺でまとまっている。宗派は真言 宗、浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、臨済宗と特定の 宗派に偏っていない。 寺の大半は潮待ちの港として栄えた13世紀から 14世紀の中世に建てられた。中世の瀬戸田町は瀬 戸内海屈指の回船基地で大消費地の京都や畿内へ の物資を運送するつなぎ目の兵庫港に生口島や周 辺の島々で生産される塩を中心に穀物、魚類など 運んでいた。 室町時代文安2年(1445)に作成された「兵庫 北関入船納帳」によると兵庫港に入港した1960隻 のうち塩船は918隻で全体の約半分を占めてい た。船数のランキングは摂津、播磨、淡路と兵庫 港に近隣地域が300隻程で多かったが殆どが1 00石以下の小型船。瀬戸田は62隻で9位の尾道 を抜いて68隻の6位につけている。瀬戸田船は4 00石以上の大型船が18隻、尾道の6隻の3倍で 取り扱った塩は1万7000石に及んだ。 塩は向島、因島、岩城島、弓削島と中世文書か ら製塩の事実が確認されるが生口島での製塩資料 は見いだせてない。ただ町史編纂室蔵「万集記」 によると江戸時代安永9年(1790)、福田、沢に揚 塩浜の記述があり、遡り中世時代、全島に揚浜が 存在していたことが窺える。塩は中世の商品の王 座的地位にあり瀬戸田は回船基地として繁栄して きたことは容易に想像できる。 中世に活躍した豪商達の寄進によって寺院、神 社仏閣が建立され、法然寺や万徳寺の石柱には豪 商の名前が刻み込まれている。 中世、増屋和三郎が建てた別荘は江戸時代の豪 商、堀内家に受け継がれ現在、住之江旅館として 残されている。 三原、仏通寺の末寺として建てられた向上寺に 国宝三重塔を建立したのは室町時代の生口守兵平 と父惟平で瀬戸田商人の持つ経済力と無関係では ない。安土桃山時代には宮島厳島神社の回廊一間 を寄進した人々の中に瀬戸田彦右衛門の名前があ り瀬戸田の海運業の繁栄を窺うことができる。 戦後、耕三寺が建立され、西日光として脚光を 浴びているが寺の町の起源は中世まで遡り、今な お参詣や奉納、行事、女性を中心にした御詠歌講 が盛んで信仰心の厚い安芸門徒の精神が受け継が れている。 |