2006年10月21日(土)
「十銭が六百圓に」
「志賀直哉と尾道」で寺杣雅人教授
 小説の「瓢箪」こそ直哉自身
  「小説の神様」の推敲ぶりを尾道で検証
寺杣教授
 市立尾道大学の地域総合センター(川田一義セ
ンター長)主催の初の「尾道学講座」の2回目が
木曜日19日午後6時半から、駅前しまなみ交流
館の大会議室で開かれ、出席者の顔ぶれに変動は
あったものの初回同様に超満員の受講生が日本文
学科の寺杣(てらそま)雅人教授による「志賀直
哉と尾道」を興味深く聴講した。

 寺杣教授は「初回の槙林滉二学部長の講演が大
好評で超満員だったことで、大変なプレッシャー
を感じた」と学内によい競争心や緊張感が芽生え
ていることを表現した。
 まず、著作権の問題で直哉の次男直吉氏から自
身が作品のコピーをする承諾を得ていると断り、
直哉が尾道で書き大正2年(1913年)1月1
日号の読売新聞(新年号)に発表した珠玉の名作
短編「清兵衛と瓢箪」と、代表作の長編「暗夜行
路」の前編が尾道滞在中に執筆されたものであり、
その「尾道分」について「小説の神様」といわれ
「推敲に推敲を重ねた」志賀文学が文章表現でど
のように変化したかという自身の専門分野からの
考察を中心に述べた。
 1912年(明治45年、大正元年)10月24
日、直哉は父直温と「留女」の出版費用の5百円
の1件で父と争いになり、11月10日に尾道着。
15日から千光寺山中腹の三軒長屋での生活が始
まる。売り言葉に買い言葉から自活の道を選んだ
が当時の500円は今の500万円ぐらいか。
 「留女(るめ)」は直哉の「清兵衛と瓢箪」の
元旦掲載に合わせて1月1日に出版されており、
その初版本は東京で39万9000円の値がついてい
る(定価1円)という。
 11月12日に船で道後まで往くが、その船中
で「清兵衛と瓢箪」のもとになる話を聞く。小さ
な何の変哲もない瓢箪の価値を知っている主人公
の清兵衛こそが自分自身(の小説)であり、直哉
はこの短編における会話文などを合計35か所も
4度にわたって書き直していると詳しく例示した。
 また、新潮社の日本文学アルバムに収録されて
いる「三軒長屋の直哉」の唯一の写真について、
槙林教授の指摘と同様、当時の無名新人の写真が
ある訳もなく、また写真の背景も(床柱など)違
うと、講演を控え現場に足を運び再確認したと指
摘した。
 代表作の「暗夜行路」(草稿)についても、前
編が尾道で書かれていると次々と例示した。「此
正月に又(母に)女の児が生まれた。父は禄(ろ
く)子と名付けたが、平気で6番目の子だから」
と云ったという草稿2で、此正月とは直哉が尾道
に来た大正元年であること。また直哉には早逝し
た兄直行がおり、後添えの浩との間に6女をもう
けたが、正しくは8番目の子であると、父との確
執の一端に触れている。
 暗夜行路草稿4の中に.は、「海に面した大き
な料理屋があって、此所では盛んに三味線太鼓の
音がしていた。小さい橋を渡ると、矢張り海へ面
した川口にアサヒビールの看板を出した西洋料理
屋があった。そこで昼食をした。変わった細々と
した事を書くとキリがないが、ライスカレーをい
うと、それに生玉子を1つつけて来たりした」と
94年前の尾道を描いていると紹介した。
 [本紙注=この洋食屋が現在の竹村家で、当時
は防地川に橋が架かっていた。竹村家では近年、
この洋食屋のメニューを復活させ好評を博してい
る」。
 その他、暗夜行路前編第二「汽車で尾道に着く」
場面があり、当時の時刻表によってこの記述を裏
付ける工夫までみせた。
 暗夜行路は16年の歳月をかけて完成させてお
り、また珠玉の短編名作「清兵衛と瓢箪」の主人
公が瓢箪を手入れし磨き上げたのと同じように直
哉も自身の作品を推敲につぐ推敲で磨き上げてお
り、この2つの代表作がいかに尾道と深く繋がっ
ているか。
 「瓢箪」は直哉自身の芸術・文化(価値観)の
象徴であり、この瓢箪(はじめは10銭)が父の出
費の500円を上回る600円の値を付けたとこ
ろに直哉の気持ちがよく表れているのではないか。
 寺杣教授は「とかく、ものからものの時代にあ
って、人とのつながりによってものが生まれてく
ることの大切さをきちんと表現しているのではな
かろうか」と結んだ。
 (写真は大正2年の読売新聞元旦号のコピーを
手に寺杣教授)。



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