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2006年9月2日(土) 寄稿 大谷治さん 《転校生》はいかにして生まれたか4-2 独立プロ新藤監督と大林監督 今改めて「大」「小」の意味考える |
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映画『男たちの大和』が尾道にもたらせたもの 2004年10月、私は東映京都撮影所からの依 頼で、映画『男たちの大和』の撮影に製作スタッ フとして、準備段階から参加することになってし まいました。『転校生』が撮影される以前から大 林監督の僚友、阪本善尚さんが大和の撮影監督と して来尾されました。すぐさまこもんに来られ、 同行の東映の方々からも協力依頼を受けました。 映画は一人では出来ない集団芸術です。それも 沢山の予算が必要です。道具としてのお金を必要 とします。それに付随する様々なハードルがあり ます。『男たちの大和』、この巨大な映画に関わ った私が感じたことはただ一つ、どこまで行って もお金と時間はない。むしろお金と時間がなけれ ば知恵が出る。そこに新しい創造が潜んでいる様 に思えます。 全国から映画のプロが250人程集って製作さ れました。日本にとっても一級のスタッフによる、 最大級の規模を誇りました。それでも暑い中、衣 装を付けながらも2週間も出番のない役者や、大 学生のポランティアの方々。この方たちと映画製 作の時間を過ごせたことは私の喜びでした。映画 に登場し、この戦闘で実際に亡くなった方々や、 佐藤監督や、現場で支えた多くの若者達の苦労を 私は決して忘れない。 尾道が撮影地に選定されたのは、日立造船の良 さや、交通の良さなどです。また尾道市民の映画 に対する理解の深さなど、製作的な優位性は他都 市を圧倒しました。結果的には尾道に大変な経済 効果があったとされます。製作時どのような協力 を尾道が果たしたかはともかく、全国のフィルム コミッションの憔悴の的になりました。大きな視 点で、これから尾道は、これらの方々に報いる意 味でも、日本の映画文化の発展のためにも、リー ダー的貢献をしなければならないと思います。 自由に生きぬき、自由に描く映画監督 新藤兼人監督も尾道に深い関わりを持たれ、映 画『裸の島』がモスクワ映画祭で受賞され、名作 として誉れが高い作品です。毎回、役者乙羽信子 さんや役者殿山泰治さんと映画制作という共同芸 術を確立されました。3人はお互いを同人と呼ぱ れ、まるで映画という文学を奏でている様です。 1990年、大林組がスタッフキャスト100 人ほどで尾道で映画『ふたり』を撮影していまし た。その時、新藤監督も20人ほどのスタッフで尾 道でロケをされていました。それも千光寺道、大 林監督の実家の前で永井荷風原作の映画『灘東綺 譚』のワンシーンを撮影されていました。なんと 2組の映画クルーが尾道に来ていたのです。映画 『転校生』から9年、三部作も完成し新三部作に かかっていた。我々にも組織らしいものが出来、 協力体制も整っていたように思われました。はち 合わせになった時、感想を監督の奥さんでプロデ ューサーの大林恭子さんは「大きなスタッフを抱 えて恥ずかしかった」と言われていた。こぢんま りしたスタッフで淡々と表現できる新藤組への畏 敬を語っておられました。 一昨年、新藤監督が、茶房こもんにおいでにな った時、「生きぬく限り生きぬきたい」とサイン を頂きました。現在94歳になられています。過去 おにぎりや雑魚寝で制作されていた映像作家新藤 監督は、人間そのものを映画で自由に描く環境を 模索されました。独立や自由の言葉と引き替えに やってくる低予算。この中で必死に映像表現を果 たされてきました。この自由に生きぬき、自由に 描ける映画作品にとって、アキレス腱は規模の大 小なのかもしれません。 永久に亘る文化効果を映画としての尾道の姿 この2人をはじめとする独立プロの作家の真の 目的は、文学に近い人間の愛の表現の様な気がし ます。 即効的な経済効果などは少ないが、映画『東京 物語』『裸の島』『転校生』などの永久に亘る文 化効果。私はこのような作品に関われたことや、 この町に住んでいることに誇りを感じます。これ ら文化作品は住民や、尾道に関わりのある世界中 の方々の生き甲斐につながるような気がします。 私はこれからも、現場で映画製作のお役に立ち たいと思っています。歴史に残る映画『転校生』 から25年、当時の薩谷さんの言葉や、尾道の方々 の無償の気持ちが思い出され、自ら大和に関わっ た述懐も含め、戻れない道に迷い込んだ気がする。 [おわり] |