2006年7月5日(水)
日本第一の海大名
「古きをたずねて」・・8.番外編、因島水軍城
 厳島合戦 毛利家に勝利もたらす
  中世、瀬戸内を支配した村上水軍
水軍城
よろい
 新尾道市の歴史の息吹を伝える民俗考古資料を
展示している7博物館を探訪した。番外編として
「因島水軍城」を付け加える。
 「因島水軍城」=写真上=は歴史家、奈良本辰
也氏の監修により再現され、全国で唯一の水軍城
で本丸が水軍資料室、二の丸が展示室、隅櫓は展
望台になり、南北朝から室町、戦国時代にかけて
活躍した村上水軍が残した武具、遺品、古文書が
展示され、その全貌が分かる。
 因島水軍の歴史は平家の落ち武者が屋島から逃
れて土着して、これらのなかで海賊化した人々が
南北朝時代に組織を整えた因島本主の勢力がいた
ことが認められており室町時代に土生の長崎山に
本城を築き、そのあと向島の余崎で、次いで重井
の青木に移り、関ケ原の戦い後、因島を去った。
 海外にも進出し交易、国内廻船業、収税など40
万石から45万石の実収入があったと言われ日本で
第一の海大名だった。一品流水学を駆使し甲冑、
鉄砲など新兵器を開発、五与法(分国法)を作り、
同族の親和を図り、和歌や茶道をたしなむ文化人
でもあった。因島村上家は伊予の能島、来島両村
上家とは祖先が一緒で連繋が保たれていた。
 三原に本拠を移した小早川家の一大勢力となり
毛利家と陶家が戦った厳島合戦では毛利家に加勢
し勝利をもたらしたのは有名な話しでよく知られ
ている。関ケ原の戦いの後、毛利氏に従い、防長
に移り因島と村上家の関係は絶たれた。
 資料は室町時代、小早川隆景から村上古充が拝
領した「白紫緋糸段縅腹巻」(県重文)=写真下
=、「村上家古文書3巻(同)、室町時代の村上
家菩提樹「金蓮寺在銘瓦4枚」(同)、鎌倉幕府
が滅んだ元弘3年(1333)に護良親王が村上
家に宛てた「大塔宮令旨」、水軍船「大阿武船」
の模型、古充の肖像画、青木城主相伝短刀、水軍
旗など貴重な品々が展示されている。
 [因島水軍城] 因島中庄町3228−2。休館
日は毎週木曜日。開館時間は午前9時半から午後
5時。入館料は大人310円、小中学生150円。
電話0845‐24‐0936。

[後記]
 「古きをたずねて新しきを知る」−と新尾道市
の過去の遺産をたずね歩いた。古代から現代まで
営々と生活が築かれ、その時代時代の民俗、風俗、
文化、芸術が遺産をとうして偲ぱれ考古学ファン
には宝の山だ。
 それぞれの町には固有の歴史があるが一方で重
なり合うように時代をともにしてきた。
 おおまかに見れば御調から瀬戸田にかけて人が
定住し始めたのは縄文時代で人骨や農耕狩猟に使
った石包丁や矢じりが出土し間違いないだろう。
日本列島が陸続きだった氷河期、因島沖で象の化
石、弓削島で打製石器が見つかったことは旧石器
時代、すでにこの地方に人が住んでいたことが推
察される。
 奈良時代、御調で有力な豪族が大寺院を建てて
いたことは御調が交通の要衝で大和朝廷との交流
があったことが窺える。
 尾道は中世から近世にかけ港町、商都として繁
栄、金融業が発達した。
 因島は村上水軍を抜きにしては語れず、村上水
軍は一時期、向島にも本拠を置き瀬戸内海の海上
権を一手におさめた。 江戸時代から本格的に始
まった製塩業は向島、瀬戸田に大きな財をもたら
し、因島でも小規模ながら製塩はおこなわれ島嶼
部で貴重な塩が生産されてきた。
 村上水軍の航海技術を活かし生まれた造船は因
島のみならず尾道、向島、瀬戸田と木造船から鉄
鋼船に移り変わった今日でも受け継がれ主要な産
業に発展している。
 下部構造の経済産業により近隣の街は絆を深め
ていった。それに立ちはだかったのは皮肉なこと
に政治だった。
 街は自然、風土、環境によって育まれ、歴史を
形どっていく。新生尾道市を創造していくうえで
のヒントや知恵として又、お互いの理解を深める
ため過去への旅をお薦めする。
              [文責・半田元成]

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