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2006年3月5日(日) 旧会議所オープン 広島藩の台所を支えた尾道商人のシンボル 亀田市長「商店街に奮起を」と 階段状議場で「市議会も1度開いたらどうか」 |
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亀田市長になって11年の尾道市政の中でも、 最も意義があるオープニングになったのではない かといえる旧尾道商業会議所の″商工記念館″の 開館式が、4日午前9時45分から、現地西隣り の「奉行所跡」広場で行われ、200人近い参集 者が商港都尾道のシンボル復元を祝った。 冒頭、挨拶に立った亀田市長は喜色満面、開ロ ー番「ご覧の通りです」と旧会議所の復元の喜び を表現。「開港840年、この建物が出来た頃は まだ尾道には工業はなかった。 毎年、6万両もの巨額な金を浅野藩に納めてい たという財間八郎先生の調べもあり、広島藩の台 所を一手に担っていた尾道商人の自負があった。 こんな小さな町に、広島を支えていた経済力があ ったことに、今さらのように頭が下がる思いがす る。 中央桟橋へ会議所が移転後、この建物を売却す る総務委員長に私が就任、佐藤汽船に買ってもら った。その後、2人で「商工記念館にして残した い」といった話をしていたが、随分時間は過った がそれが実現できた。 階段状の議場は、自分がJCの時代から使って いたものだけに、余計に感慨深いものがある。 元奉行所〜警察〜西日本銀行(尾道支店)、隣り が旧明治生命だが、西相にも明治生命にも安く分 けて頂き協力してもらえた。 このスペースや長江口広場も生かして、我々が どれだけの思いでやっているかということを、商 店街の皆さんに分かっていただかなければいけな い。 大和ロケセット効果も非常に大きいので、これ らを吸収できるよう、高原さん(九年商店街連合 会長)、ここのところは改めてよく考えてほしい」 と、商店街の奮起を強く求めた。 同建物と用地の寄付者でもあり、市長と一体と なり政経一体を言葉遊びではなく具現化している 佐藤忠男会頭が挨拶。 明治25年の商業会議所創設。全国523の会 議所のうち、県下では2番目、全国では30番目 に尾道に出来た。その輝かしい伝統と歴史ある建 物が全国でも珍しいというより日本一と言っても 過言でないものが復元できたのではないか。 全国各地の中心市街地が衰退していくなかにあ って、当時(大正12年頃とか明治25年頃)の 商業者いわゆる豪商たちがいかに隆盛を極めてい たか、そのことに想いを馳せながら、先人の遺志 を引き継いでいかなければいけない。 思えば、駅前再開発にはじまり、海岸線・シー サイドの整備、長江口ゆとりの広場、金座街の石 畳、足形道と次々と旧市街地・商店街の環境整備 が出来ている。 15万都市になった今、我々商工業者が頑張ら なくてはいけないが、今日を一つの契機として商 店街が尾道発展のために貢献できるよう力を合わ せて頑張りたいとの決意と、市長同様に商店街を 叱咤激励した。 正面入口でテープカット(写真)後、入船裕二再 建検討委員長を先頭に、往時の面影を取り戻した 建物内に足を踏み入れた(写真)。 会場奥の古い金庫の前では、「のの字が3つ入 っていたことで、山陽日日新聞に大きく掲載され た写真を見て、松本達良さん(前槙峰同窓会長) からあのマークは美濃貞の金庫」と翌朝一番に商 工課と本紙に連絡が入った経過などを本紙から説 明した。 2階の本会議場では、佐藤会頭が最前列の議員 席に腰をかけ「最初に議員になった時が、確かこ の席だった。当時は自分と向井達観さんの二人だ けだった(写真)と思い出話を市長らに語ってい た。 会議所や同女性会などの会合も次々と開かれる 企画があるが、市長は松谷成人前議長や新田賢慈 文教経済委員長らを相手に「パリの市議会のよう に、ここで一度、議会が開けたらいいナアー」と 持ちかけ、両議員とも積極的に市長の提案に″同 調″していた。 市長が古いものを提案してほしいと挨拶で述べ たこともあり、福井弘副会頭が「旧商議所と駅裏 の石井耳鼻咽喉科病院の建物が酷似しており、設 計者が同じではないかという人がいるが、残念な がら今となっては分からないのだろうか?」など、 出席者がそれぞれに自らの感動や喜び、昔の体験 談・思い出話を笑顔で語り合っていたのが、これ までのどのオープニングとも違う光景であった。 |