2005年7月6日(水)
尾道学
「尾道港(住吉浜)」に次いで入船裕二氏作
 住吉浜の防波堤に「玉浦絵巻」
  尾道は『権力に支配されない商人の町』
工事現場刻まれた文

完成した部分
 商港都尾道の歴史を住吉浜の石造りの防波堤の
壁面に刻む工事が行われている。尾道商工会議所
寄りの道路沿いには、すでに「尾道港(住吉浜)」
(写真下)が詠み込まれているが、今回も入船裕
二・市文化財保護委員参与の作で長詩「玉浦絵巻」。
15の額縁の中に1枡ごとにタイトルをつけてい
る。
 作者の入船さんは「尾道は商人の町だ」を強調
し、尾道の故事をよみこんだ。尾道の歴史の主流
の共通のテキストがなかったので、その見本の1
つとしてつくったと話している。
 大阪環状線・大阪城駅の待合室には、司馬遼太
郎作の大阪の歴史を謡った長詩「大阪城公園駅」
が4面を巡る長文、大きさであり、入船さんは
「これに比べると随分短い」と説明している。
 「尾道学」の立ち上げにあたって「尾道の歴史
と文化」の概略の共通認識の構築が求められてい
る折りからも、タイムリーな事業になった。

玉浦(ぎょくほ)絵巻
天下分け目の関ケ原の後
日本のあちこちに
城下町が生まれた
尾道は違う
古くからの港町だ
江戸は大名小名の
上屋敷 下屋敷が軒を連ね
武家の人口は約五割
町民と相半ばした
天下の台所 大阪はどうか

商人 職人 行商人
その家族を含めると
町民は圧倒的に多数
武家の人口は一割だった
尾道はどうか
文化文政の頃(十九世紀始め)
尾道の人口は約一万人
西の端に町奉行所
東の端には番所
浅野藩から出向いた
武家の人口は 百分の一
ここは商人の町だった
足利尊氏
船団が征く
貝を吹き 銅鑼(どら)を鳴らし
布刈(めかり)の瀬戸を埋めて
足利の船団が征く
軸櫨(じくろ)千里 兵庫ヘ
島は重なり 水は重なる
御大将尊氏公は麾下(きか)の幕僚を従え
浄土寺へ参龍して必勝祈願
また 余裕綿綿(しゃくしゃく)
三十三首 法楽(ほうらく)の和歌を奉納する
建武三年(一三三六)五月五日
足利義満
三代将軍また 海を征く
讃岐へ 次いで周防(すおう)ヘ
厳島参詣に名を借りた
諸大名への示威(じい)だった
大内氏も膝を屈した
帰途は尾道
守護の山名氏も出迎える
船橋を架け 義満将軍は
天寧寺へ宿る
その頃 尾道の海は広かった
時に 康応元年(一三八九)春
朝鮮使節
応永二六年(一四一九)応永の外冦(がいこう)
京へ向かう 朝鮮使節
風待ち 海賊との交渉待ちに
往復 尾道へ
『老松堂日本行録(こうろく)』にいう
 「人家は岸に沿いて密集し
 寺院は山上に連なり巡る」
 天寧寺の高僧と漢詩を応酬すと...
浄土寺 海徳寺
ついで 常称寺 天寧寺 宝土寺と
五か寺を歴訪して 詩を賦す
遣明船
遣明船が行く
尾道の港を遣明船が出る
守護山名の船も加わった
領国の備前 備後 美作から
産出する銅を尾道で積んだ
其阿弥(ごあみ)造る日本刀も積む
山名一族は西国寺寄附帳に
「毎年あるいは例年」と書く
応仁の乱に
山名宗全持豊は
西軍の総大将だった
江戸時代
応仁の乱から戦国へ
関ケ原から大阪の陣
次いで島原の乱
ようやく平和が訪れる 徳川三百年
やがて西回り航路の開発
佐渡へ 能登へ
住吉浜 修築成る
奉行は平山角左衛門
出雲路 赤名(あかな)を越えて
銀の荷駄は尾道へ
ここから船で 大阪へ
北前船(きたまえぶね)
北前船が入る
港が沸く
大人も子供も港ヘ
船頭を迎える手代が行く
芸子もお化粧 懇ろに
上り荷は鰊 塩鮭 諸国産の米...
下り荷は塩 酒 綿 酢 畳表...
天空を走る米相場
狼煙の報せで 一上一下
尾道は浅野藩の台所なり
苗字帯刀の豪商 多かりし
文人尾道ヘ
茶山先生 山路越え
友の墓は光明寺
帰りは 愛弟子玉蘊(ぎょくおん)を訪う
久闊(きゅうかつ)の辞は微笑んで
今宵の宿の油屋へ
論語の講義と詩の会だ
女画史また来て 席画なり
山陽 星厳(せいがん) 竹田(ちくでん)に
登々庵(とうとうあん)も棕隠(そういん)も
当代一流の文人が
古鏡を見ては 詩を寄せる
富籤(とみくじ)
四隣に名高い尾道の
富籤興行は
慶応元年(一八六五)四回
上は大阪 下は馬関(ぽかん)
買い手は島からも来た
値は一枚一朱
四人の共同買いもあった
船宿の船頭も買う みんな買うた
一等は千両 二等は五百両
三等は三百両
喧騒 雑踏 足の踏み場もない
明治維新
慶応三年(一八六七)秋
徳川幕府 大政を奉還
防地峠を挟み
遠来の長州兵 福山藩と対峙(たいじ)
一触即発
三年前 諸藩の兵はここを越え
長州征伐に西へ向かった
今日は東へ
 「安芸は朝駆け 三原は三日
 備前岡山通り駆け」
長州兵意気 天を衝く
西南戦争
明治十年(一八七七)二月十日
豊後水道を上る 軍艦一般
海軍大輔(たいふ)川村
旧友西郷の説得成らず
急を政府に告げんとして
ようやく糸崎に
使者は尾道電信局へ走り
「西郷の決起近し!」と
飛電(ひでん) 一閃(いっせん)
大阪へ 東京へ 熊本ヘ
西南戦争勃発す
山陽鉄道
山陽鉄道敷設を巡り 町は二分
市内貫通の是非を問う
投石頻発 白壁は泥に塗れ
ついに警官隊出動
この時の立退き
民家 四〇六四坪
寺院 一五〇坪 神社六四坪
明治二四年(一八九一)十月三日
山陽鉄道ようやく開通
同年十一月 尾道商業会議所認可
全国で三十番目
太平洋戦争
今夜 敵機また来襲
東京は焦土 大阪も焦土
ここも焼かれ かしこも焼けた
日本中みな焦土
広島に原爆落ち 遠く今治の空襲見ゆ
福山もやられた 次は尾道か
家財を積み 田舎の親戚を頼る人
線路際の建物みな取壊し
しかし 尾道は焼けず
戦国の動乱にも 維新の風にもめげず
堂塔伽藍(どうとうがらん)のたたずむ町
未来
平成十一年(一九九九)五月一日
橋はついに海を渡り
「しまなみ海道」ここに始まり
今治ヘ一濱千里
尾道水道も 布刈の瀬戸も
市内を流れる川の如し
海を擁する町
遠い昔 瀬戸内海はわが庭だった
やがて 次の時代が来る
瀬戸内の十字路として
空に 海に 新しき時代が...

転載責任者メモ:公共の場に置かれる物ということでそのまま転載しましたが
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