山陽日日新聞ロゴ 2004年5月29日(土)
瀬戸一登氏の労作
「古寺めぐり」に「墓」をセットしては...(2)
 「尾道の寺子屋と私塾」
  寺子や門人が師恩に奉じた墓群が
表紙  すずりと筆の形の墓
 平成12年11月、「尾道の寺子屋と私塾(第一集)−
主として享保から文化の間=瀬戸一登著。140ページ=
が出版されている。商都尾道を支えた「教育」が主題だが、
教え子達が師恩に感謝して建立したユニークな墓群が著者
瀬戸さんの『隠れテーマ』としてある。
 「尾道の寺子屋と私塾」の73、4頁に、明治5年に死
去した尾道寺子屋玉煙堂(堀田十三郎経営)を中心に、寺
子屋師匠の社会的地位等について詳述されている。
 学力と人格に比して経済的に恵まれなかった寺子屋師匠。
堀田敬次郎の場合は寺子(生徒)数70人で尾道としては
大規模ながらも、家計苦しく資産皆無とあるが、明治5年
3月18日に翁が死去し翌日の葬儀について「会葬者ハ本
町通・浜通、新旧門人凡一千人、小児ハ皆筆包ヲ持タス、
実二盛大ナリキ、正念寺境内硯形ノ墓二埋葬ス」と記して
いる。
 新旧の教え子達が1千人も会葬したというのは驚きであ
り、寺子屋の師匠の中には十三郎のように寺子達に信頼さ
れ尊敬された師匠も数多くいたのではないかと瀬戸さんは
推測している。
 そして、その続きに「正念寺境内には十三郎の硯(すず
り)形墓がある。それと並んですぐ西側に敬次郎の筆形墓
がある。この両墓の形は寺子屋教育のよさと伝統を守り育
てた親子の寺子屋師匠にとって、それに最もふさわしいも
のであるといえよう」と述べている。
 敬次郎は後継者がいなかった十三郎の養子(高垣敬次郎)。
 写真は記述通り、向かって右が十三郎の硯形墓で、墓石
の彫り込みや台座部分に特徴がある。左側が見ての通りの
筆墓。
 正念寺は、防地口のガードを北に上がってすぐ左手にあ
り、延命地蔵や延命水また時宗の踊り念仏の寺として有名。
 同書には、主に寺子屋の記述のみとなっているが、瀬戸
さんは堀田家の墓と同じように、寺子や門人達が師恩に感
謝して建立した「墓」についても詳しい。
 10年以上前に本社に持参された資料の中に、「算盤」
を墓石に刻み込んだ墓など、他に類をみないユニークな墓
が相当数あった。
 この労作の103頁から105頁に掲載されている「尾
道町の私塾」のうち、墓所が明記されている人達は次の通
り。
〔勝島惟徳〕豪商鰯屋、古義学派。一七三五年、六十六歳、
光明寺。
〔山崎伊右衛門〕儒学者、朱子学。一七七五年、七十四歳。
正念寺に「山崎先生千保之墓」門弟塚。
〔松田道斎〕医師、闇斎学。一七七六年、四十六歳、常称
寺、上野国幹撰になる「道斎先生碑銘」。
〔児玉禎蔵〕医師、古義学。一七八五年、五十六歳。翌年、
千光寺に「えい筆銘」建立、京都伊藤東所の撰。
〔橋本栄蔵〕豪商加登灰屋、闇斎学。一七九三年、五十六
歳、慈観寺。
〔鳥居子瑶〕豪商住屋、朱子学。一八○七年、七十歳。
「鳥居子埃墓銘」が南之坊。
〔勝鳥惟恭〕豪商鰯屋、古義学。一八○八年、四十九歳、
光明寺。
〔赤沢貞幹〕庄原村出身医師、古義学。一八○八年、四十
九歳、天寧寺。後藤栗庵撰「容斎先生赤沢君之墓銘」。
〔鳥居好之〕儒学者、闇斎学。一八ー○年、六十一歳、善
勝寺。

同書から 旧市街地の埋立て一覧
 中浜・荒神堂・米場・新地新開 尾道(主に旧市街地)
を語る時に、現在の中心市街地がいつ埋め立てられて、現
在の姿になっていたかを知らずして語ることは出来ないが、
同書の七十二頁に「江戸時代の尾道港の主な埋立工事」の
一覧があるので一緒に紹介する。
 「尾道商人の要望により広島藩が援助し完成したもの」
と記している。その代表例が名誉市民平山角左衛門による
住吉浜の築調(寛保元年)である。
 1.瓦禄ニ(一六八九)中浜▽2.元禄三(一六九〇)久保
町南、荒神堂浜、宮崎裏▽3.元禄十(一六九七)荒神堂浜
の西▽4.元禄十一(一六九八)久保町新開、尾崎新開▽5.
正徳二(一七十二)土堂町西▽6.寛保元(一七四一)住吉
祗▽7.宝暦五(一七五五)米場新地、砂寄場新油▽8.明和
元(一七六四)再び米場新地▽H寛政十(一七九八)薬師
堂浜。



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