山陽日日新聞ロゴ 2004年4月14日(水)
坂井敬樹さん来庁
尾道に待望の「歴史博物館」誕生の報で
 大鍛冶屋に伝わる品々
  「古いものを大切に」が着々と結実
貴重な品を前に談笑
 公共事業罪悪論の中心に、無能な為政者とないもの
ねだりの住民エゴの所産ハコモノ行政があったが、
『逆もまた真なり』で、尾道の場合は古いものを大切
にして再生させ、「おのみち文学の館」では行友李風
をはじめ所蔵品が激増。映画資料館も同様で開館前か
ら貴重な資料が集まっているのは周知の事実。全く同
じ手法で、旧広島銀行尾道東支店跡が「おのみち歴史
(博物)館」に生まれ変わるとの報で、尾道に最も相
応しい″博物館″がようやく誕生するとあって、続々
と『正の連鎖』が起きている。
 その第一は、入船裕二市文化財保護委員のもとへ平
田玉蘊関係の所蔵品の出品(所有者)の申し出が舞い
込んでいるほか、「尾道の郵便の歴史」についても同
館で保存、活用してほしいとの意が、所有者の天野安
治さん(市文化財保護委員)から尾道市へ伝えられて
いる。
 さらに本紙で詳報している「広島県最初之新聞」
(所有者=佐藤苔助市文化財保護委員)の「日注雑記」
をはじめとする「広島新聞」(天野安治氏所有)、
「新聞雑誌」(鳥居勝市文化財保護委員)の3点セッ
トがある。
 これらの動き、本紙報道に連動して12日、広島在
で尾道出身の坂井敬樹さん(写真右の人)が世界遺産
推進課を訪れ、自身(坂井家)が所蔵している父祖伝
来の品々の目録や貴重な資料を持参し、その保存管理
と展示方について協議した。
 坂井さんは自ら「放浪写真家」を名乗るほどで、写
真をライフワークとしている。高校生の昭和28年頃か
ら撮した写真1500枚をCDロムの写真集として昨
年、備後レポート社から出版、好評を博している。ま
た「写真のまち尾道」展に結実した「写真のオリンピ
ック」の提唱者の1人でもある。
 坂井家は現尾道幼稚園の経営者でもあり、咸臨丸の
土居咲吾に連なる篤志家として高名だが、「大鍛冶屋」
の屋号で知られる尾道屈指の豪商でもあった。
 「坂井さん来尾」の報で、天野安治さんも立会した
が、当日坂井さんが持参された資料の中に、昭和52年
9月14日付けの山陽日日新聞があり、「海を見直すNo.
10 港商都に尽くす豪商 幕末から維新時に」の連載
記事中、偶然にも「坂井善兵衛」と「天野嘉四郎」の
2人が″主役″として登場しており、「これは奇遇で
すネ」、「善兵衛さんはどうなるのですか」、「嘉四
郎さんは?」の会話のやりとりがあって、ともに「お
祖父さんのお祖父さん(高祖父)」と分かった。
 坂井善兵衛は昭和元年から8年(1926〜33)
の間、第3代の尾道商工会議所会頭をつとめている。
 「坂井家の古い話については言い伝えがなく、こう
して新聞を読んで先祖について知る程度なんですよ」
と話すが、19〜20世紀にかけ、碇など鉄製船道具を製
造販売した豪商で、今も薬師堂北のロープウェイ南に
「鍛冶屋町」の地名が残り、艮神社には鍛冶屋の神を
祀る社が残っている。
 坂井さんの所蔵品は、これまで尾道にその入れ物が
なかったため、一括して広島県立歴史博物館に寄託、
保管されており、近く坂井さんに天野さんと梅林信二
学芸員が同行して寄託品の確認を行うことにした。
 既報の古い絵はがき(約1100枚)はもとより、
昵懇の間柄だった宮原節庵の肖像写真(明18)=現存
する唯一の写真といわれている=、それに「伝弘法大
師筆」の「紙本墨書六字名号」厨子のほか貴重な″家
宝″が相当数ある。
 会談後、新宅准治世思遺産推進課長は「文化財保護
委員の先生方を悩ませることになるでしょうネ」と当
日の大収穫を表現していた。

 江戸時代 大鍛冶屋の略年表
 尾道市史、広島県史などを基に県立歴史博物館がま
とめた「江戸時代の尾道大鍛冶屋略年表」は次の通り。
 江戸時代初期、豊田郡舟木町に住むと伝える。
 江戸時代中期、尾道に移住と伝える。
 寛政三年(1791)曼陀羅図裏書に真言購の構成員と
して名を連ねる。
 享和元年(1801)尾道町絵図に、大鍛冶屋助右衛門
等がみえる。
 享和二年(1802)蝦夷地探索のため物資調達にあた
り、大鍛冶屋助右衛門が灰屋(本紙注=橋本家)に碇
を売る。
 1820年代前半、この頃から信正が鍛治になる。
 文政十年(1827)鍛冶屋総代五名の一員として、尾
道への他所からの鍛冶の移住禁止を願い出る(菅茶山
没)。
 天保の改革、鍛冶屋を六軒に統合。
 文久元年(1861)藩主巡行にあたり、藩から賞を得
る。
 文久二年(1862)宮原節庵、大鍛冶屋のために詩を
作る。
 慶応三年(1867)信正死去(66才)、子の信直が大
鍛冶屋を相続。宮原節庵が墓碑銘を撰す。

 坂井善兵衛と天野嘉四郎
  昭和52年本紙連載の一部を紹介

  前略
『坂井善兵衛は通称で名を信正といった。嘉永二年
(1849年)に安芸国豊田郡船木村の川本家から入って
坂井家の養嗣子となった。
 坂井家の業は鍛冶職だった。たまたま浅野侯が尾道
に立ち寄ったさい、鍛工の技を賞したので、善兵衛が
感激し銃十艇を製作、献じた芸庁がこれを褒めて更に
賞賜、善兵衛を尾道町の町役に任じた。四十余年にわ
たり在職、慶応三年(1867年)三月三日、六十六才で
没した。
 天野嘉四郎は幼名を常四郎と呼び、霞汀と号した。
尾道町年寄同格をつとめ、諸品会社頭取となり、廃藩
置県に際し同社の存続につとめ、明治二十二年十月、
新発足の同社の創設にも尽力した。尾道町副戸長もつ
とめ三等郵便局(今の特定局)の創立にも参画、局長
になり、山陽鉄道の布設にも寄与した。
 明治二十五年十一月、尾道商業会議所設立にさいし
発起人となり、二十六年には初期議員となった。その
ほか米穀取引所理事にもなった。三十四年十月十五日、
六十七才で死亡、浄泉寺に葬っている。』後略。
文中の坂井敬樹さんの写真集についてはこちら



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