山陽日日新聞ロゴ 2004年3月14日(日)
佐藤苔助さん宅から
 今の新聞の誕生前の県の"公報誌"に近い
  広島県 最初の新聞見つかる
   明治4年。広銀跡「歴史博物館」で展示へ
箱に入った日注雑記 広島新聞第一号
 尾道市文化財保護委員で備前焼作家、佐藤苔助さん
からこのほど、本社に「広島県最初之新聞」と箱書き
された、和綴じ28頁の″新聞″が寄託された。早速、
同じく文化財保護委員の天野安治さん(郷土史)に鑑
定を依頼したところ「広島県最初の新聞に間違いない」
との御墨付きと解説文が寄せられたので、そのまま紹
介する。
 この鑑定結果を聞いた佐藤苔助さんは「それはよか
った。母親が大切にしまっていたものらしく、家の中
の古い物を整理していたら出てきた。役に立つものな
ら、尾道市の方で活用していただければ..」と話して
いた。
 公表に先立ち、12日午前中に亀田市長に披露した
が、市長は「よくもこんなものが残っていたもの、流
石に尾道だね。天野先生の所蔵されている新聞とセッ
トにして、広銀東支店跡の歴史博物館に展示させても
らえれば大変、有難い」と喜びを語っていた。

広島県 最初の新聞
   市文化財保護委員 天野安治

江戸時代の瓦版
 日本には江戸時代に瓦版(かわらぱん)という一種
の新聞があった。木版刷りの一枚、場合によっては二、
三枚のもので、記事には天災、地変、政治上の事件の
ほかに、心中、敵討ち(かたきうち)、珍奇な事件な
どで、センセーショナルに報道された。江戸時代には、
江戸市中で販売される出版物は、本屋仲間行事(出版
組合の責任者)や町奉行の許可が必要であったが、瓦
版は無許可出版物で、江戸市中を大声で触れ歩いた。

上からの啓発を目的とした新聞
 明治維新以後になると、従来の瓦版のほかに、文明
開化の影響を受けて、海外事情の紹介など、啓蒙的な
内容を盛り込んだもの。政府や府県などの意向を受け、
新政策の啓発を目的とするような新聞も発行されるよ
うになった。最初の日刊新聞である「横浜新聞」(後
に「横浜毎日新聞」)は、活版印刷であったが、大部
分のそれは木版印刷であった。
 木版印刷は一枚の版(版木)に文章を彫って行き、
これに墨をつけた上に柔らかな和紙を置き、バレンで
こすって印刷する。江戸時代には、印刷といえばこの
木版印刷であった。

広島発行の最初の新聞
「日注雑記」

 このような新聞の多くは東京で発行されていたが、
しだいに地方でも出版されるようになる。
 広島では、明治四年九月、東京などから送られてく
るいくつかの新聞から記事を拾い出して編集した「新
聞雑誌」を、西洋小間物商静真堂が発行している。こ
れは広島県の後押しで発行されたもので、県はその購
読方を布告している。(「広島県史」近代編I、以下、
県史と表示)。
 ついで、同じ年の十二月になると、元広島藩の儒者、
山田養吉(十竹)が、県の新聞局において、今回陽の
目をみた「日注雑記」を創刊した(県史)。広島にお
いて独自に執筆、編集したという意味では、これが最
初の新聞ということになる。
 その第一号の表紙をみると、タイトルのほかに、明
治辛未十二月、定価銀1刄三分とある。辛未(しんび、
かのとひつじ)とは干支の年号表示で、この辛未は明
治四年に当たる。明治五年までは江戸時代以来の和暦
(太陰暦)が使われていたので、辛未十二月は太陽暦
の一八七二年一月から二月に相当する。貨幣単位も、
円・銭・厘の貨幣単位が実施される前で、銀本位の評
価になっている。

新聞というより雑誌に近い
 この「日注雑記」は二号までしか存在が確認されて
いないが、新聞といっても、木版刷りの和紙を中央か
ら二つ折りにして綴じて、表紙もつけてある、いわぱ
雑誌といった形で、第一号の丁数(ちようすう)は十
四丁である。和綴じは二つ折りにしたものを拡げて1
丁と数えるので、洋式のページ数でいえば二十八ペー
ジとなる。
 内容をみると、最初にかかげた「新聞局開基規則八
条」(新聞局で新聞の発行を始めるに当っての規則)
のなかに、毎月一回発行し、その都度各町村ヘー部ず
つ配布、人びとが順覧できるようにすること、それと
ともに、早く読みたい人は発売元の静真堂で購入でき
ることが記載されている。
 そして、主要な記事は、廃藩置県にともなって全国
に四鎮台を置き、旧藩兵を常備兵として置くこと、そ
のうちの東京鎮台と鎮西鎮台(九州)へ、広島から常
備兵を派遣することなど、広島県の布告である。
 残りは民衆の啓蒙を意図する記事が目立つ。明治四
年といえば、第二の維新とでもいうべき廃藩置県など、
思い切った改革が行われた年であり、それだけに人心
の動揺も大きかった。広島県では旧藩主上京を引き留
めようとする農民騒擾(そうじょう)事件が起き、流
言も乱れ飛んだ。これら流言に惑わされず、改革の真
意を民衆に理解してもらうために、官主導の新聞が生
まれたわけである。
 実際、この第一号をみても、明治天皇が旧藩主を含
む華族一同を集め、勅諭を与えたこと、旧藩主上京に
端を発した騒動がようやく収束し、十一月に行われた
大嘗祭には、広島でも奉祝の催しが行われ賑わったこ
となどが取り上げられている。
 また、この年の八月、四民平等政策の仕上げとして、
臓多・非人の呼称を廃止し、身分・職業とも平民同様
とする「解放令」が出されたが、これに関連した啓蒙
記事もみられる。この「解放令」の意義は大きいが、
差別をなくすための実効ある施策が欠けていたため、
実際の解放への動きは、被差別者の解放運動が起こさ
れてからのこととなる。 
 この時点でのこの問題に対する為政者の発想は、旧
賎民に対する平民の反発を気にし、対立、騒動が起こ
らないようにというだけの消極的なものであったが、
官主導の新聞で民衆を説諭しようとしたのであろう。
この記事の中でも、尾道の新開で、旧賤民の丁人が多
数の民衆に暴行される事件があったことを、このよう
な観点から伝えている。

「日注雑記」の後継、「広島新聞」
 このような形ではじめられた官主導の新聞発行であ
ったが、「日注雑記」は二号までしか存在が確認され
ていない(県史)。
 しかし、壬申(じんしん、みずのえさる、明治五年)
四月、「日注雑記」にかわって「広島新聞」がやはり
山田十竹により発行され、静真堂から発行された。そ
の創刊号がわたくしの手もとにあるが、木版刷りの和
綴じで、丁数は七丁、体裁も内容も「日注雑記」の延
長である。この「広島新聞」は第二十九号まで確認さ
れている(県史)。しかし、採算が取れなかったのだ
ろうか、明治六年(一八七三)には姿を消している。

官主導の「公報」から民間の新聞ヘ
 これら両新聞は、官主導の発行で、速報性よりも民
衆の啓発、善導を目的とした共通の性格をもっている。
その点、今日の新聞とはかなり隔絶した存在で、むし
ろ、役所の公報といった方がよいだろう。
 今日のような新聞は、広島では明治十年(一八七七)
にはじめて出現する。この年から十五年(一八八二)
にかけて、「広島新聞」「広島日報」「美佐々新聞」
「芸備日報」などの諸新聞が相ついで発刊されている。
このうち、「広島新聞」は先述の「広島新聞」とは別
物で、隔三日、隔二日、隔日刊といった形で発行され
たが、「広島日報」以下は日刊であった。
 この頃になると、鉛版活字で洋紙一枚の表裏に活版
印刷されるようになった。今日の新聞の形ができ上が
った。内容も官令、社説、雑報、物価、広告など、速
報性を重視したものになっている。



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