山陽日日新聞ロゴ 2002年11月16日(土)
約700年前
 尼僧が写経した55巻もの反古裏経など
  「歌島の中世文書」出版
   
鎌倉時代の生活を知る貴重な資料
歌島の中世文書表紙と内容著者
 「合併の機が熟している現在、向島という島をよく知っても
らいたいという思いをこめ、出版しました」−。歌島郷土研究
会はこのほど「歌島の中世文書」を発行した。吉原照明会長
(亀森八幡神社名誉宮司)を中心に同研究会が発足し20年、
その記念すべき慶賀の年に、歌島に関係ある反古裏経紙背文書、
備後歌島手次目録、向東町臼文書を取り上げ解説。中世、島に
住んでいた人達の生活ぶりを活写、貴重な郷土資料となってい
る。
 「反古裏経」は鎌倉時代末期、京都北野天満宮近くの護念寺
を開基した月舟和尚が死去、その冥福を祈るため、弟子の京都
から下向した尼僧、西金寺(向東町)方丈、覚照ら10数人が
写経したもので幅20cm、長さ12cmの巻き物が55巻も
あり、宮島の厳島神社には国宝「平家納経」があるが、「反古
裏経」はそれに比べ見劣りするが鎌倉時代の年号が明記されて
いる写経が現存しているのは全国に珍しい。
 鎌倉時代の貴重な資料となったのはこの写経も勿論だが、紙
は当時高価で貴重品だったことから尼僧達は寺あての文書、公
文の家から譲り受けた手紙(消息文)、期限切れの公文書(荘
園文書)を寄せ集め糊で継ぎ合わせ巻き物を手作り、その裏面
に写経し再活用したため、本来なら消滅していたであろう中世
文書が現代に伝えられることになり、今から約700年前、向
島に住んでいた人々の生きざまを物語る貴重な郷土資料となっ
た。
 写経にあたったのは覚照西金寺方丈(副住職)をはじめ、署
名で見られるのは栄幸、宗寿、如仙、性照、恵折、如道ら10数
人の尼僧、これら比丘尼は御調郡内や世羅郡周辺の未亡人、ま
たは口減らしのため向島に移住して来た人達で転入、転出の記
録が庄屋文書に残っている。
 鎌倉末期、島内にどういう尼寺があったのかは記録にはみら
れず、ただ江奥の円光坊、川尻の宝珠庵、有井の持源院など古
い尼寺が伝承されており、西金寺に縁のある尼僧達であったの
は間違いないと推察されている。
 反古裏経は鎌倉時代末期元徳2年(1330)4月3日から8月
16日まで奥書きの日付があり、吉原会長は「短期間で55巻
もの写経という大仕事をやった歌島の比丘尼たちの信仰心と根
気に敬服するほかありません」と感嘆の声をあげていた。
 ◇反古裏経の背面につづられた庶民の生活◇
 その反古裏経に使われた背面には『荘園文書』、『寺院文書』
『消息文』の75の文書が読み取れ、『荘園文書』には例えば
「在家等重言上」は年貢減免嘆願書で、鎌倉末期、島内に4,
5軒の造り酒屋があり、多額の年貢に困惑する様子を伺い知る
ことが出来る。当時の造り酒屋は金貸し、替え銭など取り扱い、
経済活動の中心的役割を負っていたことも文書から推察される。
 また、『荘園文書』の川尻藤郎次太夫の許にでは、京都東寺
の領地であった愛媛県弓削町の領民が年貢を踏み倒し逃亡、川
尻付近で逮捕され、公文(荘園役人)宅に拘引している様子が
記されている。公文職は荘園の事務、年貢取り立てだけでなく、
盗難船を探したり、犯罪者を逮捕するなど島内警備を担当する
重要な役目を帯びていた。当時の川尻は地蔵院前あたりまで海
岸線だった。
 『寺院文書』では善根甄録事、娘3人が布施を納め西金寺に
読経を依頼、父親の追善法要をおこなっている。
 『消息文』では恋人にあてた「さびしさ恋しさ」、着物の
「染め賃、縫い賃」を問い質す文書、「長州の生栗」は京都の
公家に差し出す日本一の岩国の栗について、当時、栗はデザー
トとして上級社会で珍重されていた。
 「質権」は貸していた田の年貢を小作人が納めず役所に年貢
とりたての協力をあおいだ要望書。このほか「漬物」、「病気
見舞」など当時の庶民の生活を伺い知ることができる。
 ◇室町時代に向島の地名が定着◇
 備後国歌島手次目録は亀森八幡神社宝物写真帳を解読したも
ので、鎌倉時代、向島では製塩業が盛んで、その製造量は定塩
91俵にものぼっている。製塩方法は今川了俊の「道行きぶり」
にある「藻塩焼く煙... 」にあるように海草に海水をかけ、火
をつけて蒸発、塩を採集していた。
 「向東町臼家文書」では向島の地名が出てくるのは室町時代
文明年間(1470〜1486)で既に「向島」と呼ばれていた事が判明、
貴重な資料になっている。
 島名は平安時代中期の古記録には「宇多乃之萬(うたのしま)
」とあり、その後、鎌倉時代後期まで「宇多乃末」、「歌嶋」、
「歌之嶋」と書き表されている。
 歌の島と言えばロマンあふれる名前のように思われているが
「ウダ」は湿地帯を表す地名として使われている。
 歌島が向島と呼ばれるようになった由来も年代も定かでない
が、尾道が港町として繁栄、文人墨客の来遊が盛んとなった室
町時代、対岸に横たわる絵のような島が「向かいの島」として
和歌や漢詩に数多く詠まれ、それが語源になったのではないか
といわれている。
 ◇西金寺古文書など後学の人に◇
 「温故知新、過去の歴史から、今の島を見つめればより、そ
の町がよく判る。反古裏経紙背文書、歌島手次目録、臼家文書
のほか心残りは西金寺古文書と小歌島城主村上又三郎より毛利
田主馬宛のみかんの贈呈に対する礼状の口上書である向東町大
町の吉原家伝承の古文書の調査がまだなので後学の人にお願い
したい」(吉原会長)と話していた。
 歌島の中世文書は1000部作成、希望者には町生涯学習課
(電話0848-44-0683)で無料配付している。


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