山陽日日新聞ロゴ 2002年10月25日(金)
『玉蘊の秘鏡』
「まさか。諦めていたのに・・」と絶句!
 
百数十年ぶり所在判明
  
山陽の掛け軸と一緒に近く里帰り
古鏡の箱書き
玉蘊秘蔵の古鏡として有名な唐代の銅鏡7面が、福岡屋の
没落とともに"質流れ"して百数十年。その行方について
「もはや誰もが諦めていた」中でこのほど、無事に保存され
ていたことが判り、関係者の熱意と尽力によって、この幻の
古鏡が故郷尾道に里帰りする快挙となった。
 21日午後3時から開いた尾道市文化財保護委員会(寺岡昭
治委員長)の席上、委員の入船裕二さんと池田明子さんの2人
から、玉蘊秘蔵の古鏡の一件が報告された。
 2人の説明によると、9月下旬に京都の業者から、広島市中
区の頼山陽史跡資料館の学芸員宛に、頼山陽の掛軸の真贋の鑑
定依頼が舞い込んだのがきっかけ。
 写真(京都からコピーによる)の掛軸は、山陽若き頃の「頼
襄」の号。福岡屋(平田家)に先祖代々伝わる唐代の作といわ
れる古鏡(銅製)7面をこよなく愛した玉蘊が、その素晴らし
さを詩に詠んでほしいと請い、江芸閣。頼惟柔(杏坪)・頼襄
(山陽)。中島棕隠の当代一流の文化人が詩(漢詩)を残して
いると伝えられている。
 鑑定依頼の報を聞かされ、驚愕したのは広島在で玉蘊研究家
の第一人者の池田明子さん。すぐさま師にあたる入船裕二さん
に連絡をとる一方、京都の業者にあたったところ、万万が一に
の希望通り「山陽の詩」と一緒に在るべき「玉蘊の古鏡」が業
者の手許に在ることが判った。
 早速、写真の「玉蘊女史古鏡図鑑」(箱書)と、古鏡8枚の
それぞれカラーコピーに、箱に入っていた掛軸の写しなどを入
手。また、学芸員の鑑定が「本物に間違いなし」と出たことも
あって、"箝口令"を解き21日の文化財保護委の席上で初めて、
この一大慶事を報告したもの。
 全委員にカラーコピー等が回覧される中、入船さんは「これ
は尾道に置かねばならない。現在、業者と交渉中だが、これは
何があっても玉蘊ゆかりの持光寺に置く必要がある」と力説し
た。
 また、現代の玉蘊その人になりきったかのような思い入れが
ある池田さんは「古鏡はもう出てこないものと諦めていただけ
に、なんと嬉しいことか・・」と涙ぐむほどに感激した口調で、
今回の発見の大きさを訴えていた。
 その後、23日の午前中に正式な連絡が池田さんに入り、来
月1日午後、玉蘊の秘鏡が百数十年振りに尾道に里帰りするこ
とが決まった。

 昭和13年「備後史談」で詳細に
  古鏡7枚のはずが8枚に!?

 掛軸と共に「備後史談」第14巻第4号のコピーが添付され
ていた。
 昭和13年4月15日号。福山在の郷土史家濱本鶴眉(かく
ひん)が「備後史談」誌上で、「閏秀書家玉蘊女史の研究」を
連載しており、その冒頭で「備後叢書第十巻尾道志稿122頁〜
23頁」に収蔵されている「平田玉蘊愛蔵の古鏡」の図説を載せ
ている。
 濱本鶴眉の業績については、福山城内の資料館が詳しいが、
4月15日号の(下の2)で、古鏡の「題詠」と古鏡の行方に
ついて、当時判っていた状況について詳しく述べている。
 「玉蘊一代は家宝として門外不出であったが、玉蘊の養嗣子
の玉圃の代になって、酒造屋金光屋の岡田氏に入質。玉圃が質
受けできず、金光屋も没落し、題詠ともども古鏡の行方はその
後知れない(昭和13年当時)と記述している。玉蘊没が1855
年であることから、いつごろかを想定できる。
 今回見つかったものの中に、昭和8年の「売立」(うりたて)
が同封されており、飛騨地方の旧家(三家)が所持していたも
のが、昭和8年に他に移った(所有)ことまでが判る。
 また、カラーコピーには8面の古鏡の表と裏が映っているが、
いずれの文書にも「古鏡七面」とあり、もう1枚の鏡は一体何
なのか?興味は尽きない。

注・頼山陽史跡資料館では、真贋の鑑定は行っていないとのこと。

ニュース・メニューへ戻る