山陽日日新聞ロゴ 2002年9月6日(金)
兼吉発展の礎
 江戸時代の開拓を知るうえで貴重な資料
  植田力造墓を文化財に
   兼吉池田新開を造成した墓誌銘
植田力造の墓
 向島町教育委員会は7月、江戸時代後期、兼吉池田新開の海を
埋め立て宅地造成した記録を墓誌銘に刻んだ植田力造墓を町文化
財に指定した。町内の個人墓の文化財指定は富浜塩田を築いた天
満屋浄友の墓があり、県内では神戸町、管茶山などあるが数少な
く、話題を呼んでいる。
 墓はこのほど全線共用開始された街路池田亀森線改良工事の際、
見つかり、町文化財保護委員会の吉原照明委員長らが調べた結果、
江戸時代後期、兼吉新開、現在のやすらぎ荘から一番街商店街ま
での約4ヘクタールの宅地を開業した植田力造の墓と判り、しか
も墓碑銘が刻まれ、当時の歴史を知るうえで貴重な資料だという
ことで文化財の指定とあいなった。
 墓碑銘には読み下し文に直し「士の姓は植田、力造と称し、久
甫と号す。向島江之奥植田興七郎 男(子息)也。妻は西村の中
司吉右エ門の女(ムスメ)也。士は壮年にして西村に移住す。天
保8年(1837)官命にて同村の里保となり、勤めること数年、其後
同島に於て池田新地を開築す。面して功速やかに成る。三原浅野
太夫其の功を賞し、材木、許多(沢山)賜与、実に 後末(将来)
の名誉と言うべし 既にして年老辞職を請う、家を長男に譲り、
次男に産を分ち別居し、自ら世楽の餘に遊ぶ」よ彫り込まれてい
る。
 植田力造についての資料は乏しく、手掛かりが少ないが墓に刻
まれている明治14年(1881)3月8日、84歳で逝くから換算す
ると生まれは江戸時代寛政9年(1797)か、数えでいくと寛政11年。
幼少の頃は尾道、糸崎あたりで生活した形跡が伺われ、後年、向
島に移り住んだ。父親の富は初代の向島西郵便局長や亀森八幡神
社の氏子総代をつとめるなど名士だった。
 江戸時代初期、向島は半分、海。延宝年間1673年から元禄年間
1703年にかけ天満屋治兵衛が富浜に32ヘクタールにわたる塩田
を開拓。また元禄年間には江奥高見小一帯の稲積新開9ヘクター
ルを横山家が造成している。
 池田新開の築造については尾道の財閥が資金提供したとみられ、
植田力造は墓誌銘に出てくる里保、宅地造成組合の頭で工事を陣
頭指揮、工事に入ったのが天保8年(1837)に里保になり数年後と
記されていることから1840年前後で幕府体制が崩壊する慶応3年
(1867)のほぼ30年前だろうと推察されている。
 宅地造成完成後は、その功労がたたえられ、三原の城主浅野候
から家を建てる沢山の材木が与えられ、かっての向島の中心街、
兼吉の発展に礎を築いた。
 池田新開の北側、尾道渡船一帯の開拓も江戸時代におこなわれ、
尾道の小西家がオーナーとして築造にあたったと伝えられている。
 吉原照明文化財保護委員長は「個人墓に当時の記録をとどめた
墓誌銘は珍しく、向島の歴史をたどるうえで貴重なものです」と
話していた。
[写真は街路改良で向島町亀森の小高い丘に移された植田力造の
墓]。

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