山陽日日新聞ロゴ 1998年8月27日(木)
県近代化遺産 尾道市編..(4)
 映画
「東京物語」にも登場  土堂2丁目、市中央桟橋
中央桟橋と県営西御所上屋
 中央桟橋は江戸時代の尾道の表玄関であった住吉浜の西側、荒神
浜に位置し、かつては、瀬戸内の各港を結ぶ汽船の寄港地として大
いに賑わった場所である。また、波静かな尾道の港にふさわしい景
観は、小津安二郎監督の名作東京物語の中にも登場している。
 昭和2年に策定された港湾整備計画では、尾道港内に6つの桟橋
の建設が予定されていた。中央桟橋は、その一環として昭和13年に、
既存の大阪商船の桟橋を置き換える形で設けられたものである。
 桟橋本体は船が岸壁に平行に発着する形式である。長さ約20m、
幅約10mの浮桟橋を2函結び、計5函が岸壁に平行に連ねられてい
る。
 桟橋の前は、当初荷揚げのための広場となっていた。西御所の貨
物用岸壁の整備に伴い、後に木造の待ち合所が建てられ、これも昭
和46年には商工会議所等が入居するビルに建て替えられた。
 桟橋と岸壁の間は、幅4.5m、長さ11mの鉄製のブリッジで結ばれ
ている。ただし、当初のブリッジはより幅広いもので、現在のもの
は、ビル新築時に置き換えられたものである。
 浮桟橋及びブリッジの上には、金属葺きのボールト(トンネル状)
屋根が架けられた鉄骨の上屋が設けられている。5連のうち、中央
の桟橋の屋根は、ブリッジの屋根に接続するため、T字型の交差ボ
ールトとなっている。また、当初のブリッジの屋根は、W型で、棟
の中央にはギリシャ風の装飾も置かれていた。
 桟橋上屋の構造、意匠は、鉄道駅舎のプラットホーム上屋に似た
ものであるが、アングル(L字型鉄材)をリベットで組み立てるな
ど、できるだけ重量を減じるよう工夫されている。繊細な柱に支え
られた青いボールト型の屋根が水面に浮かぶのはまことに優雅であ
る。
 なお、駅前桟橋も、ほぼ同様な模様・デザインで整備されたが、
近年新たな桟橋に取り替えられてしまったのは惜しまれる(双方と
も全文掲載)。
残念だった1号棟撤去 西御所町、県営西御所上屋
 JR尾道駅を南に進むと目の前に尾道水道が広がる。海岸を西に
しばらく進むと、西御所町の岸壁の北に接して、県営上屋と表記さ
れた倉庫が2棟建っている。
 昭和2年、末松県知事が原田貞介博士、藤井滋香技師に委嘱して
いた尾道港修築計画がまとめられ、この計画に基づき昭和5年から
総額317万8千円に及ぶ港湾改修事業が実施された。
 その一環として、西御所町には、新たに大型船が接岸可能な岸壁
が整備され、併せて3棟の上屋が建設された。当初計画では、全て
鉄骨造の予定であったが、1号上屋のみ鉄骨造スレート葺きで、2
号、3号上屋は鉄筋コンクリート造である。
 現存する2号、3号上屋は、平面の規模及びプランは同一で、桁
行17スパン、梁間が3スパンの東西に長い1室である。また、斜め
に梁が走り勾配屋根を支える山形ラーメン構造が採用されている。
 2号上屋の屋根は、コンクリートスラブによる緩い勾配屋根で、
採光可能な天窓が設けられた。
 しかし3号上屋の屋根は、棟木及び母屋は全て木製で、下地無し
に石綿スレート版の屋根が葺かれている。また、採光用の天窓もな
い。柱の仕上げ等、細部も2号に比べてかなり単純化されており、
戦時下における資材節減型建築であると考える。
 記録上は、3棟とも昭和18年10月の竣工となっている。しかし、
先に述べた構造の相違を鑑みると、これは3号上屋の竣工を示すも
ので、1号、2号上屋はそれ以前に、順次建設されたものではある
まいか。
 外観は、2号、3号とも無表情なコンクリート壁の間に鉄製の両
開きの引き戸式の大きな扉が並ぶもので、引き込み線が接していた
北側には、片持ち梁で大きく庇が突き出している。全体的に合理的
かつ即物的なデザインで、当時としては相当斬新なものであった。
 なお、近年市民有志から1号上屋に対して、保存再生し、文化施
設として積極的に活用を求める提言がなされたにも係わらず、一考
されることもなく撤去されてしまったのはまことに残念である。

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